12月 12th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
人は死んでも、その人の影響は死なない
Martin Luther King Jr.
今年も多くの方をお見送りしました。
生前のお付き合いが多ければ多いほど、様々な想いが去来します。
遺された方々がおいでになっていても、時折「みんな逝ってしもた。寂しなったわ」と言う言葉をお聞きします。
人と人とが出会うということは、様々な影響を与え合います。
互いに気分のいいこともあればよくないこともあります。
でもそれは出会ったその人としか共有できない思い出でもあり、同じ時を過ごした者でしか共有できない感覚もあるのだと思います。
私もこのお寺に来て17年が経とうとしています。
お一人おひとり、想い出が積み重なってきています。
仏事に限らず一緒に過ごした時間が積み重なって、故人となられても折に触れ思い起こします。そしてその印象は一定のものではなく、新たに気付かされることもあります。
人が出会うというのは想像以上に重く、生きている限りいつまでもその影響を受け続けていくのでしょう。
お寺に関することでもそうです。他所から来た私たちには全くわからなかった仏事や仏事に対する伝統的な関わり方について、時に厳しく、時に優しく教えていただき、わけがわからないままにも経験し、影響を受けて徐々に共有させていただけるようになってきたという感じがしています。
ところがコロナの煽りで縮小(中断)になっていることも少なくありません。
でも規模縮小にて執行される報恩講などの伝統的な仏事や行事は、実は住職や坊守にとっても「楽」なのです。
それもそのはず。大切なこととして伝わってきているものは、たいてい準備の段階から私たちの日常生活のリズムを狂わせるからです。
おそらくそのようにして自己都合を優先して、人生がいつまでも続くと信じて「生活のため」に勤しむ私を、日常生活から一旦立ち止まらせるのが狙いなのではないでしょうか。
必ず突然崩壊していく日常の事実を仏前にて立ち止まらせて、考える時間を与えられているのだと思います。
コロナ対策が徐々に見えてきた今、仏事や行事の見直しも必要だとは思いますが、先に歩まれた方々が私にまで伝えてくださった願いを考えることは、先達への敬意と、未来の方への責任でもある思います。
自己都合によって出てくる「結論(果)」はお伝えくださった影響を消し去りかねないものが多く、私を出発点にした結論の理非は後から気が付くことばかりです。
むしろ現在にまでお伝えくださった「因(もと)」を訪ねることで、ようやくその願いが見え、何をどのように伝えていくのかを考えることもできるのだと思います。それが因の心(恩)を受けとめた姿であり、「影響が死んでいない」姿だと言えるのではないかと思います。
10月 13th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »
宗教の問題は煩悩でなく、
分別から人間を解放することになる。 安田理深
この言葉には続きがあります。
「分別というものが人間の主体性を奪っている。煩悩が奪っていると、一応いえるけれども、さらに再応考えれば分別が奪っている。」
30代前半、自分がどうしていたらいいのかよくわからず、何だかもがいていたような時期がありました。
そんな時連れ合いに「あなた一生懸命誰かに合わせようと無理してない?」と周囲の「正解」に合わせようと必死だった自分の姿を言い当てられ、ハッとさせられたことがあります。
実は自分のことは自分が一番わかっているようで、一旦「こうした方がいい」という「分別」を掴むと、認知バイアスがかかり「それ」以外見えなくなります。
またある時は、大きな行事の決定事項が何度も何度も変更になって全く仕事が追い付かない中、それとは別にチームでやるような仕事を「なんとか一人でやってくれないか」という話になり、職場でも家でも常にパソコンと向き合い、永遠に終わらないんじゃないかと思う作業と向き合っていました。
そんな大変な時期にある日急に腰が痛くなり、徐々に身動きが取れなくなって、麻酔も効かず他の薬も効かず、10日間ほど安静にすることを余儀なくされたことがありました。
気質的な原因は不明でストレス性のものだったそうですが、実は「しなければいけない事に励んでいるだけ」のつもりでしたから、ストレスが原因だとはにわかに信じられませんでした。
「分別のある子」、「分別のある大人」という言葉があります。しかし頼りになるはずの分別によって逆に苦しんだり、知らず知らず自分や誰かを追い込んだりすることがあるのです。
それは自分で経験して獲得した「分別」のようで、実は何か過去の心地よくない記憶が底にあって、ある程度社会生活を快適に営むために大切な「正しさ」や「正しい大人・社会人」という、物事を分別・判断する「枠」を教えられ、自分や周囲を規定してきたに過ぎないのではないかと思うのです。
「枠」は「惑」に通じると教えられます。
迷いは「どうしたらいいのかわからない」状況ですが、惑いは「こうでないとあかん。こうなるはずや」というルールや答えに縛られた状況です。
自分の中の「分別」できる「枠(答え)」が増えるほど、そのことを除けて物事を考えることができなくなります。
行き詰まったり進路が狭まってしまう時、思えばいつも私の思いが道を閉ざしていたのでした。
そして悲しいことに、苦しんで手に入れた大切な「分別」は、時代や状況と共に変化し、いつか「過去の常識」に変わり果てることもよくある話です。
来月は報恩講です。日常の忙しさから一旦立ち止まって仏前に詣し、お念仏申し教えを聞き、共に判断に迷い分別に惑う、自分自身の眼を確かめたいと思います。是非ともお参りください。
報恩講
◎11月12日(土)
13時30分 逮夜
御俗姓 住職
ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 2席
18時 御初夜(お取越しは内勤めにします)
御伝鈔 住職
ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 1席
◎11月13日(日)
7時30分 晨朝
朝御講(御斎)今年は中止いたします。
10時 日中
ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 2席
秋季永代経
13時30分
住職挨拶
以 上
9月 27th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
人は二度死ぬ
長源寺仏教婦人会では、年に1度映画鑑賞会をします。
今年は、あるご門徒さんのおすすめで「リメンバー・ミー」というディズニーの映画を鑑賞しました。
お念仏とか極楽浄土とかという事とはまた別に、死後の世界が現在の延長線上で描かれているところをとても楽しんで観ることができました。おすすめです。
とても印象的だったのは「人は2度死ぬ」というセリフがあったことです。
自分のことを覚えてくれている人がいなくなると、肉体を失った死後、その存在自体が消えてしまうということでした。
実は竹中智秀先生が「人は2度死ぬ。1度目は肉体の死で、2度目は存在の死です。忘れ去られるのです。これは決定的な死です。だから2度は死なせまいとして法事を営むのです」とおっしゃいました。
ところが故人のためを想って仏事を勤める時、実は故人の思い出だけではなく、自分は故人に対してどういう存在でいたのだろうかと、自分自身を見直しさせられてはいないでしょうか。
また生きている間も、誰かが私を知ってくれているから生きていられるのです。誰も私を知らなければ、どれほど孤独でしょうか。私の思う印象であろうと無かろうと、他者との関わりの中で私は私でいられるのです。
生きていらっしゃっても、お亡くなりになっていても、出会った以上、私は他者との関わりの中で影響を受け続けて存在しているのです。
「リメンバー・ミー」のリメンバーとは「remember」と書きます。
「remember」は「思い出す」と訳しますが、「re」は繰り返しを意味し、「member」はラテン語の心にとどめる「memor」が語源です。
つまり、繰り返し繰り返し心に留めるというのが本来の意味だったようです。
以前先輩に○回忌というのは、「言ってみればお亡くなりになった日が1回忌だと言える」と教わりました。初めて故人の死を受け止める日です。だから1周忌は「言い換えれば2回忌とも言える」2回目、故人の死を受け止めるのです。
繰り返し繰り返し思い起こすことを通して、繰り返し故人と、そして故人も導かれた教えに出会い直し、繰り返し私の日常の有様を見直す。
平素、自分の思いに迷い揺れて悩み苦しむ私が、自分もまた必ず全てを手放して終えていく人生において、何を本当に大切にしていくのかを教えに知らされて人生の立ち位置を取り戻す。そんな時間が故人を縁に訪う(とぶらう)仏事だと言えるのではないでしょうか。