8月 21st, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
憶念とは、忘れていたものを思い出すという意味 宮城顗
本山や別院では7月に盂蘭盆会をお勤めしますが、関西では一般的に8月がお盆の季節です。
この時期はいつも以上にバタバタと境内を出入りします。
ふと参道横の前栽に目をやると、百日紅が綺麗に咲いています。実はこの百日紅を見るたび、先月17回忌を一緒にお勤めいただいた先代住職のことを思い起こします。
ご存知の通り、先代住職と私たち家族は血の繋がりはなく、面識もありませんでした。
先代住職は若い頃、日赤の看護部長を勤めながら住職として頑張って来たようです。
退職後20年経過してもかなりしっかりしており、物事もはっきりと言う方でした。
また厳しい側面もありましたが、情に篤く、芯の通った住職でもありました。
あの頃は、後を継ぐのはもちろんですが、「先ずは家族にならなければ」と思っていたことを思い出します。
日頃から食事は一緒にして、実の親と同じくらいモノを言い、実の親以上に気をつかわなければいけないと思っていました。
それでも「近くに寄れば影が見える」というように、一つ屋根の下に住んでいると色々とあるものです。お互い思うようにはいかんのです。
そんなある日「今年は百日紅の花が見られんな」と言うのです。
私は「百日紅ってどれ?気候が変なの?」と、その意味がわかっておりませんでした。
でも先代住職はその言葉通り、百日紅が咲く前の6月に還浄いたしました。
後から遺品整理をしたり、ふとした時に、故人の思いに出会い直したりすることがよくあります。
気が付いた時にはもういないのです。大切なことはなぜかいつも後から気が付くのです。
何年も経ってから気がついたことも沢山あります。
お互いに煩悩の火を燃やしあっている時には相手に焼かれまいとして、自分の努力や正しさをわかってもらうのに必死です。だから「気をつかう」といいながら、相手の考えや願いを汲み取るのは後回しになりがちです。
それは悲しいことに、縁ある方々から今いただいているものや、以前からいただいてきたものも自分の善悪・好悪・損得で受け止め違いすることが多いあり方です。
その証拠に、相手が煩悩の火を消してくださった途端に、自分本位で浅はかであった、情けない自分の姿と向き合わされます。
自分の感覚を優先してしまう私は、情けない姿に向き合わされたことを傲慢にも「気付いた」と錯覚しがちです。
故人がいてくださったお陰なのです。
この気付きもいただきものなのです。
そういう意味では故人を縁に勤める儀式や法座を縁に忙しい日常から一旦足を止めて、故人との日々を憶念し、教えを通して損得・好悪に揺れる私の眼を、齷齪する私の足元を再確認する時間をいただき続ける営みがとても大切だと思います。
7月 22nd, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
雑行を棄てて本願に帰す 教行信証 「化身土巻」真宗聖典399頁
「雑行」とは我が力、自分の努力などを頼りとすることで、「正行」(お念仏の行)に対して言われる言葉です。
親鸞聖人は9歳から比叡山で一生懸命修行されましたが、29歳で法然上人の本願他力の浄土の教えに帰依されました。言葉にしてしまえばこれだけの事ですが、20年間の努力を放棄するのは並大抵のことではなかったことでしょう。
私は長浜に来て約17年です。長浜別院での勤務年数も同じです。
別院のお誘いを受けた理由は、住職として生きる上でこれ以上理解を得られる職場はないと思ったからです。
また、継続して日々きちんと勤行することで、儀式作法のあらゆることが身に付きます。さらに、聴聞の機会も増えます。
常に仏法に関することが身の回りにあることで、色んな物事が教えを通して見せられ、考えさせられる環境は大変ありがたいのです。
ところが17年経った私は、果たして本当に本願の教えに帰していると言えるか怪しいのです。
数年に一度、他業種への転職のお話を頂戴します。毎回待遇も良く有難いお話です。収入が増えれば生活は楽になるでしょう。それでも毎回悩みます。
今まで通りにお寺のことができるのか不安になるのです。儀式もそう、聴聞もそう。
「浄土真宗の教えは、どのような生活をしていても聞ける」「その生活全体が教えを聞くご縁となる」と言いながら、今までよりも仏法に触れる時間が減るのでは、と不安になってしまいます。
ところがこの不安の正体は、実は自分が「今まで頑張ってやってきた」という苦労や努力、経験が手放せずに変化を恐れているだけなのかもしれないと思うのです。つまり、「雑行」です。手立てが目的化して、帰すべきお念仏に帰せず、棄てるべき雑行に執着している姿そのものでしょう。
自分でも気がつかないうちに、仏法を利用して我が努力を肯定してしまうのです。それは仏法を歪め「雑行化」しているのと同じです。そして、「これでよし」「今までやってきた」という思いに座り込み安心してしまっている姿でもあります。
その証拠に、どれほど儀式や聴聞を重ねても、ちょっと揺さぶられると本願に帰すどころか、雑行に帰す自分の脆さが露呈します。
『浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし』
とは宗祖が晩年に詠まれたご和讃ですが、「本願に帰す」るとは、お念仏の教えに導かれながら、雑行に執着する「虚仮不実」の私に出会い続けて生きるということなのかもしれませんね。
6月 17th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
仏に出遇うということは
仏に背きつづけている私に出遇うということです。 藤元正樹
「帰国子女のボクサー崩れの若造に何ができる」
就職して間もない頃に言われた言葉です。
お寺の世界を知らなかった私は、先に歩む8歳上の兄と比較される事も多く、宗門の大学を卒業し、宗門の人間関係の中で仕事をしている方々に対して引け目を感じている時期がありました。
勤務先ではご門徒のお宅にお参りに行く事が多く、お寺の法要では多くの本山関係者も出仕くださるので、まずは儀式をしっかり勉強しないといけないと思いました。
兄や本山に勤める親戚など、色んな先生のところに足を運び、教えを乞いました。
そして、そのうちそれなりに評価をいただくと、おかしな事が起こります。
評価し、比較する側に回るのです。
その事に気付かせてくださったのは、法座を大切に開き続けておられる諸先輩方でした。
儀式も大切だけれども、その意味や意義を仏様の教えに訪ねて行く歩みの重要性を知らされ、また足を運び、教えを乞いました。
でもまたおかしな事が起こります。
教えを聞いても、自分の聞く力は不問にして「このお話はいい」「今日はいまいち」と評価する心が起こってくるのです。
儀式や教えを聞く事を通して出遇ったのは、仏様や仏様の教えよりも、自分で掴んだ何かを頼ろうとする、私自身の自力根性の深さでした。
それは仏様を疑い背く姿そのものなのです。
日頃の人間関係や、教えの言葉に出遇った時も同じ事です。
「頼りになる」「大切だ」「わかった」と思ったものに縛られて、そうでないと思うものとの分断を生み出すのです。
立場や人に囚われ、頷いた教えの言葉に囚われ、握りしめた狭い世界観に閉じこもり、他と比べて懸命に自分の正しさに執着します。
どれほど大切な事であっても執着の対象となった途端、厄介でしかありません。
ついにその暗く気忙しい区別する心から解放される事なく日々が空過してしまうのです。
誰しも何か(誰か)を頼りにして生きているのだと思いますが、変化していくものにすがるよりも、変わらぬ仏様と仏様のお念仏の教えを依り処として生きようと勧めるのが浄土教です。
「仏に背き続ける私に出遇う」とは、仏様に手を合わせながら、実は少しも仏様を依り処とせず、むしろ仏様の教えを「わかった自分」になって救われようとして分断を生む、自分でも気が付かない自分自身の暗さに出遇う事だと思います。
自分の暗さに出遇うことで初めて仏様(光)の存在を知るのです。
それでもすぐに囚われて再び背いてしまう私だからこそ、生涯いつでも何度でもお念仏申し、仏様の教えを聞き続け、囚われの闇から解放され続ける道を生きるのです。