コトバ

2022年4月・5月

5月 26th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

おかげさまのどまんなか 東井義雄

 

ご門徒の皆様を初め、内陣・外陣の法中様方、親類、家族、多くのお参りの皆様のおかげで無事、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要兼蓮如上人500回御遠忌法要が円成いたしました。

何事をするにしても、平素はつい自分の大変さが目につくものです。ところが皆さんと一緒にこの法要をお迎えする中で、「関わってくださるお一人おひとりがいてくださったお陰」また「自分は全体のほんの一部に関わらせていただいているだけ」という事を、今までにないくらい強く感じました。

住職のためではなく、お寺のためと言われればその通りなのですが、関わらせていただいた一人としては、私以外の全ての方に感謝しかありません。

このご縁に一緒に会わせていただけた事に衷心より感謝申しあげます。

思えば2005年にこのお寺にご縁をいただいて約17年。そしてこの法要の計画が立ち上がってから約10年。本当に色んなことがありました。決して平坦ではなかったと振り返っています。

本堂や仏具の修復、新調、設備の調整など、これからのお寺を考えて、何回も何回も話し合いを重ねました。

それは「法要をご縁とした整備」というよりも、法要をお迎えするための準備を通して、今私たちが何を大事にして生きていくのか、そして何を後の世代に託したいのかを、私たち自身が確認しているかのように感じました。

何でもしたいようにできるわけではありません。経費の問題だけでなく、色んな問題が起こって方向転換したり、思いもよらぬ手助けがあったり。右往左往しながらの10年間でした。しかも、そこにきてコロナと年末年始の雪害です。マスク生活はしばらく続きそうですし、樋や瓦もまだ修復できてはいません。

当たり前のことですが、本当に「生きる」という事は、自分の思いを超えて色んな事を受けていかんならんのですね。

それでも行き詰まる事なくここまで来れたのは、一緒に悩み、考えてくださる方々のお陰であったと思います。また今回一緒にお迎えすることができなかった方々も含め、多くのみなさんのお姿に背中を押され続けたお陰で、今日もまだ住職・坊守としてなんとか続けさせていただいているのだと思います。

この御遠忌の円成で「やれやれ」と言う安堵の気持ちと「終わってしまった」と言う寂しい気持ちが入り混じっています。

そんな中今後のお寺を考えるに、やはり思うようにならない事や、今は想像できないような色んな事があるのだと思います。

中には私に縁ある「おかげさまのどまんなか」であるといただく事ができない事もあるでしょう。それでも今後もここで、皆さんと一緒に仏法を聴聞し、お念仏申して参りたいと今の自分の気持ちを確かめさせていただきました。

本当におかげさまです。今後共どうぞよろしくお願いいたします。

 

以下、ほんの一部画像を掲載(*出仕者、ご講師を除いては個人が特定できない画像のみ)します。

アルバムや動画はお寺で保管しています。ご覧になりたい方はご一報ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年3月

3月 17th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

和とは不和のかなしみなり 曽我量深

 

先月末からのロシアとウクライナの戦争が激化し、世界全体にも影響を与えています。

 

『他者の現在を思いやること、それは分からないから思いやるんであって、理解できるから思いやるのではない。』とは鷲田清一氏の言葉ですが、ロシアにはロシアの、ウクライナにはウクライナの、自らの行動を正当化する理由があるようですね。
しかし意見の異なる相手は排除対象だと言わんばかりに、武力に訴える行為は全くもって愚行としか言いようがありません。早期終息を強く願います。

 

対話が成立しないと、意見の異なる人とも共に生きていると言う「事実」を見失いがちです。
「私」が私一人で存在しているわけではないように、あらゆる存在は、そのものだけで存在しているわけではないのです。しかし理屈ではそうではないとわかっていても、「私」の眼では世の中は「正しい(好き)」と「間違っている(嫌い)」の2種類にしか見えません。

 

「私」は厄介です。
「私」を中心に世界を見ると、共に生きるあらゆる存在、あらゆる事象を有害と無害とに分けてしまいます。
つまり争いの元は「私」です。

 

「私」を全く離れて生きることはできませんが、「私」を掴んで離さない私に「諸法無我」と世界の本当の姿を伝えてくださる仏様の教えをたよりに生きようとする「道」が、改めて大切だと感じています。

 

それは決して「私」の思いを肯定し、補強する耳障りのいい言葉をたよりとすることではないと思います。
「私」が納得できる「答え」を求めて教えを聞くのではなく、「それでいいのか?」と教えの方からの問いかけに「応え」ることが「教えをたよりに生きる」ということだと思います。

 

三重県の池田勇諦氏は『聞法とは私の「考え」の物差しが教えによって問い返されること』とおっしゃいます。

 

聞き続けることで確かな存在になったり、正しい判断ができるようになるわけではありませんが、「私」の思いよりも仏様の呼びかけ(お念仏の教え)に応えて生きようとした時、意見の異なる他者と互いに責め合う私たちが、共にその「道」に救われていくということがあるのではないでしょうか。

2022年2月

2月 4th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

八万の法蔵をしるというとも

後世をしらざる人を愚者とす  蓮如上人

 

「八万の法蔵」とは、沢山ある釈尊が説かれた教え(御経)の事で、「沢山の御経を学び知っていたとしても」という事になります。そしてその後続けて、後世を知らない人を愚者と言うのだと仰います。

「後世」とは、現世が今なら生まれる前が前世、死後を後世というのでしょう。

 

お葬儀など、ご自身が亡くなった後の「現世」を気にかける方はお見かけしますが、ご自身の後世を気にかけている方はあまり知りません。
また「前世占い」も人気みたいですが「前世」と言いつつ、現世を快適に生きようとする為のものでしょう。

 

親鸞聖人は人生を「難度海」と海に譬えられました。度は渡と同じ意味です。

人生は荒波のように困難が多いものです。前世や後世よりも、現世の色んな問題を乗り越えようと、命ともいうべき人生の時間をかけて、みんな幸せな明日を夢見て一生懸命に頑張っているのです。

そうやって「将来の幸せのために」「明日のために」と頑張り続けますが、もし「明日が来なくなった」ならば、今まで現世のために頑張ってきた意味は一体どうなるのでしょう。

 

実は親鸞聖人の仰る「難度海」とは、人生は困難が多いという事を表現しているのではなくて、人生自体の意味を見出す事ができなければ、どれほど頑張って有意義に生きても、結果的に人生は真っ暗な荒波に揉まれて最期は沈む迷いの海でしかなくなると表現されたのだそうです。

 

長浜に来たばかりの頃、あるご門徒さんに「仏事が多い地域ですね」と話しかけたら「ごえんさん。仏縁は多い方がええんやで」と言われました。

これは、現世の諸問題から一旦立ち止まって「人生そのものの問題」と向き合う時間を大切にしようとする方のお言葉であると感銘を受けました。

 

しかしコロナで混迷する今「仏事は不要不急」と言って現世の諸問題にこそ時間を費やそうとする風潮はないでしょうか。
慌ただしい日々の出来事の中で一旦立ち止まる機会が無いと、問題に振り回されて「早いなぁ」と時の流れに驚いている内に、人生を「振り回され続けた時間」として消費してしまわないかと不安になります。

 

仏教とは、釈尊が覚られた真理を言葉にしてくださったのが始まりです。
釈尊入滅後も、多くの方々が「人生そのものの意味」を御経に問い続けて生き抜かれ、その身を通した言葉を紡いでくださった人生を貫く教えです。
その「人類の歴史」ともいうべき教えの中で、いのち全体の問題に向き合うために伝わったのが「後世」という世界観です。

 

その教えに耳を傾けて考える機会を失えば、自分が生きてきた程度の答えしか出ないのです。
母の胎内の記憶もなく、気がつけばいつの間にか現世を生きていた私たちは、どれほど頑張って我が「知恵」を絞り続けても、気がつけばいつの間にか終わりを迎えるのです。

今年も多くの法要・法座を予定しています。
仏縁を大切にお念仏申し、仏様の「智慧」に耳を傾け、どちらを向いて生きるのか共に考えましょう。