1月 1st, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
自分の考えたとおりに生きなければならない。
そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう。
ポール・ブールジェ(仏・小説家)
ここ数年、今までの「当たり前」は大きな変化を余儀なくされ、日常生活はもとより仕事、娯楽、自治体、宗教行事など影響は多岐に渡りました。
仕方なく行われた変化もありますが、コロナをチャンスと捉えて行われたものもあるように思います。
仕方なく行われたものは、おそらく今の状況が落ち着いてくれば元に戻そうとする動きが自然と出てくると思いますが、「コロナ」や「これからの時代」など、自分以外の何かに責任や理由を置き換えることで変化しようとしたものは、おそらく状況が落ち着いても、戻そうとも、それ以上考えようともしないことが多いのではないかと思います。
実は昨年の1月にも同じ言葉をご紹介しました。最近の色んな変化を見て、改めてこの言葉から大切な問いかけをいただいているように感じます。
身近なところでいえば、仏事も三密を避けるため、規模縮小にて執行されることが多くなりました。
「以前のようにしたい」とか「戻さなあかんかなぁ」とか、意見は人それぞれです。
私にとって仏事は、私の考えや都合より先に「伝承されてきた形」となって届けられました。
私は届けられた以上、伝承されてきた意味や、この形式で伝えようとされた先達の願いをきちんと「教えを通して考える」ことが先代と次世代の間に立つ者の責任であると考えています。
教えを通して考えると言うのは、自分の偏った個人的な「当座」の考えよりも、「普遍的で不変」である仏の教えを優先させようとすることです。
そういう私も、実は意味どころか執行の作法すらわからなかったのです。今でもそうですが、周囲の方のお伝えを受けて学び、それをまた教えに尋ねていくことの繰り返しです。
あらゆる仏事などの伝統的な行事は、まるで学生の頃に聞き入れ難かった親や先生の言葉のように、自分のやりたい事と吊り合わなかったり、非効率に感じることが多いのです。なので、自分が生きてきた通りに考えても意味を見い出しにくいことがよくあります。
しかしながら、お勤めやお話、そして作法にも意味があるように、故人と縁ある方が集まることにも、御斎を共にいただくことにも意味があります。それを自分で確かめるのです。
ただ、伝統を守ることが正しくて、変化することが悪いというのではないのです。
例えば規模縮小で仏事が執行されることで、普段お話できなかった方とゆっくりお話できたというメリットも感じています。正解はわかりません。でも変化する・しないの方法論よりも先に、普遍的な眼(教え)を通じて考えることの方が肝要です。
コロナ下で「みんなは法事をどうしているか」とよく尋ねられます。でも仏事において「多数=正しさ」ではありません。間違えることも多いのです。未知のウイルスの前では仕方のないことですが、今一度きちんと考え直すことが大切でしょう。
困ったら是非ご相談ください。私も即答できるわけではありませんが、世代を超えて一緒に教えに聞き、考えていきましょう。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
12月 13th, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
私はすぐ私以外のものになりたがって自身を忘れる
あなたはあなた自身であればよい 平野修
今月のことばは、「あなたらしく」という励ましの意味だけではないような気がします。
私は両親と8歳離れた兄、そして4歳離れた姉の5人家族の末っ子でした。
兄は私が小学生のうちに家を出たので、幼い私は姉から受ける影響が大きかったように思います。
いつ頃だったのかは曖昧ですが、思春期でしょう。
ご多聞に漏れず姉がひどく父を避ける時期がありました。
自分も成長と共に両親と距離をとるような事はありましたが、当時は姉の避け方にとても驚いたのが印象に残っています。
その後私は渡米したので、その頃から自宅は「帰省先」となり、父と姉の印象はそのまま強く残りました。
そんな私も10年足らずで結婚をし、娘を授かり初めて親となりました。
「賜った立場によって人は育てられる」と教えられますが、とにかくこの家庭で頼り甲斐のある「夫・父親」にならなければならないと背伸びをしていた様に思います。
もう随分前のことですが、娘とちょっとしたことで衝突したことがあり、その時彼女が「お父さんは、お母さんのことは大好きでも、私のことはそうでもないんでしょ」と訴えたのです。
大変驚きましたが、彼女の話をよくよく聞いているうちに、どうやら私は『私以外のものになろうとして』いたのではないかと思い至りました。
必ず訪れるであろう時に備え、彼女が嫌な思いをしないようにと、小学校に上がる頃にはお風呂は連れ合いに頼み、求められた時以外は必要以上にベタベタしないようにして、厳しい事も言いますが、辛い時には話を聞き、至らずともそれなりにきちんとした父親であろうとしていました。
でもそれは、実は傷つく事を恐れて理想の父親像を演じているのであって、彼女自身と向き合っているのではなく、彼女を通して自分の思いを実現しようとしていたに過ぎなかったのです。
それに気付いた時はかなりショックでした。
演じ続ける事で自分の弱さを心の奥底に仕舞い込んで『自身を忘れ』た時、知らないうちに目の前の人を傷つけてしまう事があるのです。
言わせてしまった事がとても切なかったのですが、言ってくれた事が有難くもありました。
「経教はこれを喩うるに鏡の如し」と教えられます。
お経やお念仏の教えから照らされることで初めて見える私の影もありますが、縁ある誰かとの対話の末に開かれる景色は、それもまた私の姿に気付かせてくれる大切な教え(はたらき)だと受け止めるのは言い過ぎでしょうか。
対話できる時もあれば、そうでない時もありますが、「自分」とは自分の思う自分ばかりではないはずです。誰の、どのような言葉も大切に「聞く(考える)」事を大切にしたいものですね。
11月 26th, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
仏教は「仏道」であり、「仏道」は「道」です。
「道」は歩かなくては「道」ではありません。
「あそこに道があるわい」と 眺めているだけでは意味がないのです。
小山一行
報恩講の準備をしていて気が付いたのですが、毎年お内仏におかけしていた打敷は大正11(1922)年に厳修された宗祖親鸞聖人650回御遠忌を記念して仕立てられたものでした。
コロナの影響で2年も延期になった御遠忌ですが、その事で奇しくも丁度100年後に750回御遠忌をお勤めすることとなりました。
今回の御遠忌に向けて、みんなで協力しあって本堂や仏具の修復・新調をしただけでなく、数々のご寄進によって、法要をお迎えする用意が整いつつあります。
縁あってここの住職のお役目を賜った訳ですが、改めて今より前の住職や坊守、ご門徒の皆様方が連綿と修復や新調を繰り返して、今日のわたしたちまでお伝えくださったのだと感じました。
また、それと同時に今の私たちがこれからの人のために何を残していくのか、これもまた大きな課題だと感じました。
今は私が住職というお役目を賜っており、縁ある皆様とお寺をお預かりしておりますが、私でなければならない理由などないのです。
たまたま私であっただけなのです。
ただ、たまたまだからといい加減にやり過ごしていい訳ではありません。それは住職や坊守だけでなく、ご門徒さんお一人おひとりも同じ事です。
この16年、その「たまたま」からどれほどのお育てをいただいてきたことか。本当に有難いことです。
たまたま大切に相続するのも人。たまたま壊すのも人。
風が吹いたら桶屋が…と言いますが、因縁果の道理から外れることのない私たちは、たまたまの「私一人くらい」でも影響してしまうのです。
お寺というのは立派に整えられた伽藍だけがあっても、それは本当の意味で相続した事にはならないのだと思います。
例えば学校の運営が大切か、または学問を通して営まれる先生と生徒の歩みが大切かというように、お寺の存続が大切か、それともお念仏の教えを通して集い語るみんなの歩みのどちらが大切か。
私たち一人ひとりがどう生きたのかは、目に見える姿形だけが伝わる訳ではないと思います。その背中こそが全てを伝え影響を及ぼし、その影響を受けた後の人が判断することになるでしょう。
結果からしか判断できないことですが、今受けているお伝えを大切に、それぞれの生活の現場を大切にしながら、共に教えを聞き、この道を歩みましょう。