10月 18th, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
ただ人は みな 耳なれ雀なり
蓮如上人御一代記聞書
真宗聖典に「蓮如上人御一代記聞書」というものがあり、そこには上人の日々の対話などが316ヶ条収録されています。その175番目に
「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬれば なるこにぞのる」此の歌を御引きありて、折々、仰せられ候う。「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」と、仰せられしと云々
とあります。
田んぼに来る雀を追い払うために、揺れると音がなる「鳴子」を設置するものの、何度も鳴るうちに雀も慣れて、鳴子の上に乗ってしまっている様子を歌ったものを引用して、人は「耳なれ雀」だと仰ったとのことです。
先日大通寺の宮戸輪番から、これはまさに今の私たちのことではないかと教えていただきました。
コロナにしても、蔓防にしても、緊急事態宣言にしても段々と耳なれしていくのです。
毎日毎日感染者と死亡者のニュースを聞きながら、数十人前後の罹患者だと「滋賀県減ったね」などと言いいます。
マスク、手洗い、うがい、消毒、体調管理など感染予防の日々にも慣れ、ワクチンも2回接種すると「自分は大丈夫やろ」と油断してしまうのです。
そしてそれはコロナだけの話ではないでしょう。
「人間」も長くやっていると、それなりに経験も増え「ああ知っている」「わかっている」と、わずかな経験と照らし合わせて、手ですることを足でするような横着はしていないでしょうか。
何を見ても「知っている」と自分勝手な物の見方で上から裁き、人の苦労も「似た経験をした」などと評価して、「なんでやろなぁ」「大丈夫か」と寄り添うことも忘れ、横柄になってしまうのです。
教えを聞いても同じこと。
信心のひととおりをばわれこころえがおのよしにて、なにごとを聴聞するにも、そのこととばかりおもいて、耳へもしかしかとも入(い)らず(御文2帖目第5通・聖典783頁)
と蓮如上人が仰るように、どの教えを聞いても「知っている」「あぁこの話」あるいは、「解釈が甘い」「勉強不足」として、むしろ話者の良し悪しを評価し、「我が事」だと聞けなくなるのです。
何事も「慣れる事」は大切かもしれませんが、慣れは「こういうもんや」と答えを掴んだ姿でもあります。
その「慣れ」はややもすれば大切なことを見失ったり、壊したりすることがあるのです。
そしていつでも壊す主体は、壊すつもりなど毛頭ない私自身です。
今年も報恩講(11月13日、14日)で一緒にお念仏申し、教えを聞き、我が身を確かめたいと思います。
9月 15th, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
行き詰まるのは、自我の思いだけである。清沢満之
「ここ(の町)にきて後悔してへんか心配なんや」
ある門徒さんに言われた言葉です。
大阪で就職したばかりの頃は、教えを語る事もなければ、法要儀式も全くわかっておらず、色んな人に尋ね回り、まとめるような事を7年程繰り返していました。
そんな中ご縁があってこちらに入寺した15年程前、本山の某部署に来ないかとのお誘いを受けたことがあります。
しかし当時は長浜に転居したばかりで、長浜別院に就職したばかりという状況でもありました。それでも「行きたい」という気持ちと「入寺したばかりで、門徒さんやお寺と離れてもいいのか」という思いで大変迷いました。
困った挙句、役員会で「行きたいという事」「帰ってくるのは定年後になるという事」などわかる範囲の事を全て話して相談しましたが、「ごえんさん。臨時の門徒総会開くまでもないわ。行かんといてくれ」との結論でした。
私も家族と腹を括って入寺したように、ご門徒さんも腹を括ってお迎えくださったに違いありません。この結論は尊重しないといけないと考え、こちらに残ることにしました。
それでも当時はその決断に揺れました。
何回も何回も思い起こしては振り払い、思い起こしては自分に言い聞かせていました。
同じ頃、今までなかった「月参り」を始めてくださいました。
一軒一軒お参りに伺ううちに、お一人おひとりの顔が見え、色んなお話をするようになり、だんだんとこの場で自分のしなければならない事は何か、できる事は何かと考えさせられ、それがしたい事になって行ったのです。
冒頭の言葉は、当時を振り返り「門徒全体のために、ごえんさんの人生を振り回した」という思いが背景にあったのだそうです。
しかし縁あって人が出会えば、良い悪いではなく、必ず影響を受けます。
それは都合次第で振り回されているとも、お育ていただいているともどちらにも取れるのです。
相手だけでなく、受け取り手の問題でもあります。
私にもここに来なければ出会えなかった、あるいは悩まなかったであろう人間関係や物事があります。
でも、ここに来なければ今の私はなく、来なかった私などいないのです。
海外や国内各地で生活してきましたが、都合で見れば何とでも印象の変わる人間関係や物事は、所詮自分勝手にその時の価値感で一喜一憂しているに過ぎないのだと思います。
色々ありますが、いつでも私のいる場所が私の生きる現場です。
ご門徒の皆さんが真剣に関わってくださって、共に悩み喜んでくださる事で、これまで継続して来られた事に感謝しています。
これからもお念仏の教えを頼りに、この念仏道場で一緒に歩んでまいりたいと考えています。
8月 27th, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
私がなぜか不安なのは、頼むものが無いからではなく、
頼むものをしっかりと握っているからだ。和田稠
思えば「頼むもの」を集めようと頑張ってばかりだったのではないかと思います。
ボクシングをしていた頃は「強さ」「巧さ」「勝利」こそが「頼りになる」と思い、一生懸命それらを求めて努力していました。
試合に勝つと一時は安心するのですが、次の試合が決まるとまた不安になって練習するのです。
今の私は「健康を頼り」にしています。
仕事ができなくなるのは不安ですからね。
「元気で長生き」とか「健康寿命が大事」とかCMで流れてきます。ドキュメンタリー番組かと思ったら、健康食品のCMなんていうのがよくあります。流行ってるみたいですね。
グラフィックデザインの仕事を始めたのも生活のため、娘を大学に行かせてあげたいと思い「収入を頼り」にしているのです。そのためには頑張って営業もするし、勉強もします。
そして「家族も頼り」にしています。
家族が協力してくれているので、なんとか生活できているし、何より頑張る原動力になっています。だから家族に何かあると不安になるのです。
そんな風に、みんな頼りにしているものはたくさんありますが、全て「いつか離れなければならない」という共通点があります。ずっと変わらないものが無いんです。悲しいけれど。
「これは大事」「これは頼りになる」と思ったものを気力も体力も時間も何もかもかけて、一生懸命努力して身の回りに集めて守ろうとするのですが、全て必ず別れなければなりません。
そしてその「頼むもの」との別れは、自分の方が娑婆の縁尽きるという別れ方もあるのです。
日頃はその事も忘れて、いつまでも生きるつもりで人生の不安を必死で無くそうとしている私の姿を、仏教では「迷っている」と表現されます。
お念仏申し、教えを聞いて迷いから覚めるのならいいのですが、実は私の迷いは想像以上に深く、教えを聞いて「なるほど」と頷いたら、次はその「納得を頼り」に安心しようとします。
そしてさらに「自分の納得に合う言葉」を頼りにするあまり、違和感を覚えた言葉は受け入れ難く、聞きたくなくなります。
不安を無くし頼りになりそうなものを集めるためには、お念仏の教えをも「頼むもの」にしたり、しなかったり自分の感覚でどうにでもするのです。
それは何をやっても、不安定な自分の感覚を一歩も出ていない姿です。
残念ながら、自分の思いを出発点にしたものは一貫して頼りにはならないのです。
変わらぬお念仏の教えを何度も何度も聞かせていただき、不安定な自分を知らされながら一歩一歩歩むように生きる道が、頼りなくとも、確かな道として開かれているように思います。