9月 27th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
人は二度死ぬ
長源寺仏教婦人会では、年に1度映画鑑賞会をします。
今年は、あるご門徒さんのおすすめで「リメンバー・ミー」というディズニーの映画を鑑賞しました。
お念仏とか極楽浄土とかという事とはまた別に、死後の世界が現在の延長線上で描かれているところをとても楽しんで観ることができました。おすすめです。
とても印象的だったのは「人は2度死ぬ」というセリフがあったことです。
自分のことを覚えてくれている人がいなくなると、肉体を失った死後、その存在自体が消えてしまうということでした。
実は竹中智秀先生が「人は2度死ぬ。1度目は肉体の死で、2度目は存在の死です。忘れ去られるのです。これは決定的な死です。だから2度は死なせまいとして法事を営むのです」とおっしゃいました。
ところが故人のためを想って仏事を勤める時、実は故人の思い出だけではなく、自分は故人に対してどういう存在でいたのだろうかと、自分自身を見直しさせられてはいないでしょうか。
また生きている間も、誰かが私を知ってくれているから生きていられるのです。誰も私を知らなければ、どれほど孤独でしょうか。私の思う印象であろうと無かろうと、他者との関わりの中で私は私でいられるのです。
生きていらっしゃっても、お亡くなりになっていても、出会った以上、私は他者との関わりの中で影響を受け続けて存在しているのです。
「リメンバー・ミー」のリメンバーとは「remember」と書きます。
「remember」は「思い出す」と訳しますが、「re」は繰り返しを意味し、「member」はラテン語の心にとどめる「memor」が語源です。
つまり、繰り返し繰り返し心に留めるというのが本来の意味だったようです。
以前先輩に○回忌というのは、「言ってみればお亡くなりになった日が1回忌だと言える」と教わりました。初めて故人の死を受け止める日です。だから1周忌は「言い換えれば2回忌とも言える」2回目、故人の死を受け止めるのです。
繰り返し繰り返し思い起こすことを通して、繰り返し故人と、そして故人も導かれた教えに出会い直し、繰り返し私の日常の有様を見直す。
平素、自分の思いに迷い揺れて悩み苦しむ私が、自分もまた必ず全てを手放して終えていく人生において、何を本当に大切にしていくのかを教えに知らされて人生の立ち位置を取り戻す。そんな時間が故人を縁に訪う(とぶらう)仏事だと言えるのではないでしょうか。
8月 21st, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
憶念とは、忘れていたものを思い出すという意味 宮城顗
本山や別院では7月に盂蘭盆会をお勤めしますが、関西では一般的に8月がお盆の季節です。
この時期はいつも以上にバタバタと境内を出入りします。
ふと参道横の前栽に目をやると、百日紅が綺麗に咲いています。実はこの百日紅を見るたび、先月17回忌を一緒にお勤めいただいた先代住職のことを思い起こします。
ご存知の通り、先代住職と私たち家族は血の繋がりはなく、面識もありませんでした。
先代住職は若い頃、日赤の看護部長を勤めながら住職として頑張って来たようです。
退職後20年経過してもかなりしっかりしており、物事もはっきりと言う方でした。
また厳しい側面もありましたが、情に篤く、芯の通った住職でもありました。
あの頃は、後を継ぐのはもちろんですが、「先ずは家族にならなければ」と思っていたことを思い出します。
日頃から食事は一緒にして、実の親と同じくらいモノを言い、実の親以上に気をつかわなければいけないと思っていました。
それでも「近くに寄れば影が見える」というように、一つ屋根の下に住んでいると色々とあるものです。お互い思うようにはいかんのです。
そんなある日「今年は百日紅の花が見られんな」と言うのです。
私は「百日紅ってどれ?気候が変なの?」と、その意味がわかっておりませんでした。
でも先代住職はその言葉通り、百日紅が咲く前の6月に還浄いたしました。
後から遺品整理をしたり、ふとした時に、故人の思いに出会い直したりすることがよくあります。
気が付いた時にはもういないのです。大切なことはなぜかいつも後から気が付くのです。
何年も経ってから気がついたことも沢山あります。
お互いに煩悩の火を燃やしあっている時には相手に焼かれまいとして、自分の努力や正しさをわかってもらうのに必死です。だから「気をつかう」といいながら、相手の考えや願いを汲み取るのは後回しになりがちです。
それは悲しいことに、縁ある方々から今いただいているものや、以前からいただいてきたものも自分の善悪・好悪・損得で受け止め違いすることが多いあり方です。
その証拠に、相手が煩悩の火を消してくださった途端に、自分本位で浅はかであった、情けない自分の姿と向き合わされます。
自分の感覚を優先してしまう私は、情けない姿に向き合わされたことを傲慢にも「気付いた」と錯覚しがちです。
故人がいてくださったお陰なのです。
この気付きもいただきものなのです。
そういう意味では故人を縁に勤める儀式や法座を縁に忙しい日常から一旦足を止めて、故人との日々を憶念し、教えを通して損得・好悪に揺れる私の眼を、齷齪する私の足元を再確認する時間をいただき続ける営みがとても大切だと思います。
7月 22nd, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
雑行を棄てて本願に帰す 教行信証 「化身土巻」真宗聖典399頁
「雑行」とは我が力、自分の努力などを頼りとすることで、「正行」(お念仏の行)に対して言われる言葉です。
親鸞聖人は9歳から比叡山で一生懸命修行されましたが、29歳で法然上人の本願他力の浄土の教えに帰依されました。言葉にしてしまえばこれだけの事ですが、20年間の努力を放棄するのは並大抵のことではなかったことでしょう。
私は長浜に来て約17年です。長浜別院での勤務年数も同じです。
別院のお誘いを受けた理由は、住職として生きる上でこれ以上理解を得られる職場はないと思ったからです。
また、継続して日々きちんと勤行することで、儀式作法のあらゆることが身に付きます。さらに、聴聞の機会も増えます。
常に仏法に関することが身の回りにあることで、色んな物事が教えを通して見せられ、考えさせられる環境は大変ありがたいのです。
ところが17年経った私は、果たして本当に本願の教えに帰していると言えるか怪しいのです。
数年に一度、他業種への転職のお話を頂戴します。毎回待遇も良く有難いお話です。収入が増えれば生活は楽になるでしょう。それでも毎回悩みます。
今まで通りにお寺のことができるのか不安になるのです。儀式もそう、聴聞もそう。
「浄土真宗の教えは、どのような生活をしていても聞ける」「その生活全体が教えを聞くご縁となる」と言いながら、今までよりも仏法に触れる時間が減るのでは、と不安になってしまいます。
ところがこの不安の正体は、実は自分が「今まで頑張ってやってきた」という苦労や努力、経験が手放せずに変化を恐れているだけなのかもしれないと思うのです。つまり、「雑行」です。手立てが目的化して、帰すべきお念仏に帰せず、棄てるべき雑行に執着している姿そのものでしょう。
自分でも気がつかないうちに、仏法を利用して我が努力を肯定してしまうのです。それは仏法を歪め「雑行化」しているのと同じです。そして、「これでよし」「今までやってきた」という思いに座り込み安心してしまっている姿でもあります。
その証拠に、どれほど儀式や聴聞を重ねても、ちょっと揺さぶられると本願に帰すどころか、雑行に帰す自分の脆さが露呈します。
『浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし』
とは宗祖が晩年に詠まれたご和讃ですが、「本願に帰す」るとは、お念仏の教えに導かれながら、雑行に執着する「虚仮不実」の私に出会い続けて生きるということなのかもしれませんね。