2021年11月

11月 26th, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

仏教は「仏道」であり、「仏道」は「道」です。

「道」は歩かなくては「道」ではありません。

「あそこに道があるわい」と  眺めているだけでは意味がないのです。

小山一行  

報恩講の準備をしていて気が付いたのですが、毎年お内仏におかけしていた打敷は大正11(1922)年に厳修された宗祖親鸞聖人650回御遠忌を記念して仕立てられたものでした。

コロナの影響で2年も延期になった御遠忌ですが、その事で奇しくも丁度100年後に750回御遠忌をお勤めすることとなりました。

今回の御遠忌に向けて、みんなで協力しあって本堂や仏具の修復・新調をしただけでなく、数々のご寄進によって、法要をお迎えする用意が整いつつあります。

縁あってここの住職のお役目を賜った訳ですが、改めて今より前の住職や坊守、ご門徒の皆様方が連綿と修復や新調を繰り返して、今日のわたしたちまでお伝えくださったのだと感じました。

また、それと同時に今の私たちがこれからの人のために何を残していくのか、これもまた大きな課題だと感じました。

今は私が住職というお役目を賜っており、縁ある皆様とお寺をお預かりしておりますが、私でなければならない理由などないのです。

たまたま私であっただけなのです。

ただ、たまたまだからといい加減にやり過ごしていい訳ではありません。それは住職や坊守だけでなく、ご門徒さんお一人おひとりも同じ事です。

この16年、その「たまたま」からどれほどのお育てをいただいてきたことか。本当に有難いことです。

たまたま大切に相続するのも人。たまたま壊すのも人。

風が吹いたら桶屋が…と言いますが、因縁果の道理から外れることのない私たちは、たまたまの「私一人くらい」でも影響してしまうのです。

お寺というのは立派に整えられた伽藍だけがあっても、それは本当の意味で相続した事にはならないのだと思います。

例えば学校の運営が大切か、または学問を通して営まれる先生と生徒の歩みが大切かというように、お寺の存続が大切か、それともお念仏の教えを通して集い語るみんなの歩みのどちらが大切か。

私たち一人ひとりがどう生きたのかは、目に見える姿形だけが伝わる訳ではないと思います。その背中こそが全てを伝え影響を及ぼし、その影響を受けた後の人が判断することになるでしょう。

結果からしか判断できないことですが、今受けているお伝えを大切に、それぞれの生活の現場を大切にしながら、共に教えを聞き、この道を歩みましょう。

宗祖親鸞聖人650回御遠忌の打敷

2021年10月

10月 18th, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

ただ人は みな 耳なれ雀なり

蓮如上人御一代記聞書

 

真宗聖典に「蓮如上人御一代記聞書」というものがあり、そこには上人の日々の対話などが316ヶ条収録されています。その175番目に

 

「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬれば なるこにぞのる」此の歌を御引きありて、折々、仰せられ候う。「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」と、仰せられしと云々

 

とあります。

田んぼに来る雀を追い払うために、揺れると音がなる「鳴子」を設置するものの、何度も鳴るうちに雀も慣れて、鳴子の上に乗ってしまっている様子を歌ったものを引用して、人は「耳なれ雀」だと仰ったとのことです。

 

先日大通寺の宮戸輪番から、これはまさに今の私たちのことではないかと教えていただきました。

 

コロナにしても、蔓防にしても、緊急事態宣言にしても段々と耳なれしていくのです。

毎日毎日感染者と死亡者のニュースを聞きながら、数十人前後の罹患者だと「滋賀県減ったね」などと言いいます。

 

マスク、手洗い、うがい、消毒、体調管理など感染予防の日々にも慣れ、ワクチンも2回接種すると「自分は大丈夫やろ」と油断してしまうのです。

そしてそれはコロナだけの話ではないでしょう。

 

「人間」も長くやっていると、それなりに経験も増え「ああ知っている」「わかっている」と、わずかな経験と照らし合わせて、手ですることを足でするような横着はしていないでしょうか。

何を見ても「知っている」と自分勝手な物の見方で上から裁き、人の苦労も「似た経験をした」などと評価して、「なんでやろなぁ」「大丈夫か」と寄り添うことも忘れ、横柄になってしまうのです。

 

教えを聞いても同じこと。

 

信心のひととおりをばわれこころえがおのよしにて、なにごとを聴聞するにも、そのこととばかりおもいて、耳へもしかしかとも入(い)らず(御文2帖目第5通・聖典783頁)

 

と蓮如上人が仰るように、どの教えを聞いても「知っている」「あぁこの話」あるいは、「解釈が甘い」「勉強不足」として、むしろ話者の良し悪しを評価し、「我が事」だと聞けなくなるのです。

 

何事も「慣れる事」は大切かもしれませんが、慣れは「こういうもんや」と答えを掴んだ姿でもあります。

その「慣れ」はややもすれば大切なことを見失ったり、壊したりすることがあるのです。

そしていつでも壊す主体は、壊すつもりなど毛頭ない私自身です。

今年も報恩講(11月13日、14日)で一緒にお念仏申し、教えを聞き、我が身を確かめたいと思います。

2021年9月

9月 15th, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

行き詰まるのは、自我の思いだけである。清沢満之

 

「ここ(の町)にきて後悔してへんか心配なんや」

ある門徒さんに言われた言葉です。

 

大阪で就職したばかりの頃は、教えを語る事もなければ、法要儀式も全くわかっておらず、色んな人に尋ね回り、まとめるような事を7年程繰り返していました。

そんな中ご縁があってこちらに入寺した15年程前、本山の某部署に来ないかとのお誘いを受けたことがあります。

 

しかし当時は長浜に転居したばかりで、長浜別院に就職したばかりという状況でもありました。それでも「行きたい」という気持ちと「入寺したばかりで、門徒さんやお寺と離れてもいいのか」という思いで大変迷いました。

 

困った挙句、役員会で「行きたいという事」「帰ってくるのは定年後になるという事」などわかる範囲の事を全て話して相談しましたが、「ごえんさん。臨時の門徒総会開くまでもないわ。行かんといてくれ」との結論でした。

 

私も家族と腹を括って入寺したように、ご門徒さんも腹を括ってお迎えくださったに違いありません。この結論は尊重しないといけないと考え、こちらに残ることにしました。

 

それでも当時はその決断に揺れました。

何回も何回も思い起こしては振り払い、思い起こしては自分に言い聞かせていました。

 

同じ頃、今までなかった「月参り」を始めてくださいました。
一軒一軒お参りに伺ううちに、お一人おひとりの顔が見え、色んなお話をするようになり、だんだんとこの場で自分のしなければならない事は何か、できる事は何かと考えさせられ、それがしたい事になって行ったのです。

 

冒頭の言葉は、当時を振り返り「門徒全体のために、ごえんさんの人生を振り回した」という思いが背景にあったのだそうです。

 

しかし縁あって人が出会えば、良い悪いではなく、必ず影響を受けます。
それは都合次第で振り回されているとも、お育ていただいているともどちらにも取れるのです。
相手だけでなく、受け取り手の問題でもあります。
私にもここに来なければ出会えなかった、あるいは悩まなかったであろう人間関係や物事があります。
でも、ここに来なければ今の私はなく、来なかった私などいないのです。

 

海外や国内各地で生活してきましたが、都合で見れば何とでも印象の変わる人間関係や物事は、所詮自分勝手にその時の価値感で一喜一憂しているに過ぎないのだと思います。

 

色々ありますが、いつでも私のいる場所が私の生きる現場です。
ご門徒の皆さんが真剣に関わってくださって、共に悩み喜んでくださる事で、これまで継続して来られた事に感謝しています。
これからもお念仏の教えを頼りに、この念仏道場で一緒に歩んでまいりたいと考えています。