2018年3月

3月 24th, 2018 Posted in コトバ | no comment »

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり

歎異抄 第4章

滋賀医科大学で「医の倫理合同講義」というものがあるとネットニュースで知りました。

年に1度、内部の医学生と外部の宗教者が互いの役割を知って「死生観」を深め、終末期の患者さんとの向き合い方を議論するのだそうです。
講師を務められたのは鹿児島市にある浄土真宗本願寺派の善福寺住職、長倉伯博さん(64)。長らく緩和ケア病棟で活動していらっしゃるのだとか。

記事にはこうあります。

『学生からは、もし自分が担当する患者だったらどう対処するかという観点で意見を出されたが、大半が口にしたのは医療側からの希望だった。すると、患者の言いたいことをひたすら聞く「傾聴」を実践している、ある僧侶がこう諭した。「この方は自分がどうなるかを知った上で苦しんでいる。そのとき、どうしたり、どう言ったりすれば共感してもらえるだろうか」
学生に対し、表面的な言葉や態度ではなく、患者の立場や気持ちに思いを寄せるよう促したのだ。』

記事以外の具体的な講義内容はわかりませんが、その記事から感じたのは、私は私の視点でしか誰とも関われないということです。

相手の視点に立とうとすることはあっても、完全には立てないということです。

以前、住職としてご遺族に対して、何とかさせていただかなければと思い、一生懸命中陰毎にお話し続けたことがありました。

満中陰を過ぎ、その後どう過ごしていらっしゃるのか気になって色々考えていた時に、とんでもない思い違いをしている事に気付かされました。

儀式を執行している私も勿論、寂しかったのですが、帰れば家族がおります。しかし、ご遺族は私が帰った後も、大切な人が亡くなられた場所で生活していらっしゃるわけです。

私の行為が善意によるものであったとしても、何かがわかって、何かができると思っていた自分の傲慢さに胸が痛かったことを覚えています。

寄り添うということの難しさと、住職として引っ越して来たこの町で、仏法を拠り所に共に生き、共に死ぬという事を深く考えさせられました。

『医療の目的は病気を治すことよりも、人生を深く味わう機会を患者に作ることに置くべきではないか。そう考えないと、人の死に直面したとき、医療には敗北しか残らない』とは講師の長倉さんの言葉です。

一人一人、その時その時、スカッとした正解の無い人生です。
では私自身はどのように生きたいのか。共に教えに聞き、考えていきたいと思います。

 

2018年2月

2月 3rd, 2018 Posted in コトバ | no comment »

善人になるより悪人と気づくのは難しい

 勝見昭造

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」歎異抄の悪人正機は有名な言葉ですね。

 

悪人ですら往生するんだから善人は当然往生するというならわかりますが、これはその逆です。
私もなんの事やらわけがわかりませんでした。

しかしこの「わけがわからん」のがミソでした。

 

「わからん」のは、私のいう善悪が私の都合によるから「わからん」のだそうです。
なるほど私の都合による善悪では、自分は常に善人なのです。

 

確かに悪人だなんて全く思っていないですね。
たとえ何かしてしまっても、言い訳をしてでも自分を正当化します。
しかも仮に認めて反省しても、反省する前よりも反省した私は賢く正しいつもりなのです。
当然「わけがわからん」はずですよね。

 

実は信仰においても、自分を善人にしたり認められない他者を悪人にするような問題があります。

先輩から教えてもらった、金子大栄講述『正信偈講義』という書物の一節です。

 

『信仰のある人間は、同じ信仰の人間以外、つまり信仰のない人間を人間でないやうに思ふからであります。同じ信仰を持ってゐる者だけ人間であるやうに思ふ。病気にならうが、災難がおこらうが、死ぬであらうが、信仰のない人を見れば、「あれは信仰がないから」と言ふ。どんな場合にも無信者に対しての敬愛がない。さうして動もすれば無信仰の人間などはどうなつたつていゞんだといふやうな態度をとり勝なのです』

 

宗教であれ何であれ、私の眼を頼りとしている以上、どこまでも自分の思いの範疇でしかモノを受け止められません。
結局それは強い自我意識であり、妄信と言っても差し支えないほど闇は深くなります。
世界宗教といえども、教えに触れた私自身が狭く苦しい世の中を作るのです。

これは宗教の問題ではなく、触れた人間の問題です。

 

鬼は外福は内。悪いのは他人で損は嫌い、こんでええねん。何が悪いねんと、気に入らない他者は認められず自己肯定もやまず、何とか損をしたくない私は、よもや自分で自分の世界を狭め、苦悩を生み出しているのだとは気が付きません。

 

これを無明と言い、苦作る悪人と言うのでしょう。
「無明とは確信の感覚である」とは私の先生のことばです。
確信において人は道を見失うのです。つまり、影を見失う事と光を見失う事は同義です。

 

教えに照らされ続けるべき身である事を忘れ、真実を掴んだと錯覚すると、自分こそが善であると確信し、聞く耳を失います。それは同時に、非常に深い闇へとはまり込んでいる状態であり、実は一番教え(光)を必要としている姿なのだと思います。

2018年1月/修正会のご案内

12月 31st, 2017 Posted in コトバ, 法要案内 | no comment »

あらたまの 年のはじめは祝うとも 

南無阿弥陀仏の こころわするな

蓮如上人

 

この時期、私の日頃のこころはお祝いムード一色ですが、蓮如上人は南無阿弥陀仏のこころを忘れるなと仰います。

 

学生時代にお世話になった竹中智秀先生が次のようにおっしゃっています。

「死のない生を前提とした人生設計は幻想である」

 

現代の我々の理想が生み出す快適便利なものは、無意識的に「死」は前提から除外されていることが多いように思います。

 

 

例えば最近はSNSという無料で個人のページを作れて交流できるという便利なサービスがあります。

そのお陰でお寺の様々な活動が活発になってきたのも事実ですが、ページの持ち主が亡くなってもページは存在し、さらにその方のお誕生日を祝うようにお知らせまでしてくれます。

なんとも言えない感情が起こってきます。

 

あるいは以前住んでいた街では、二人でいっぱいになるエレベーターや非常に狭い階段の建物がありました。御棺や担架で運び出される事を前提としていないという事でしょう。

 

「生」のみが私たちの前提となった時、いつまでも生きるつもりで、病んだり傷ついたり亡くなったりする事実を抱えた存在である事を忘れます。

 

それに対して昔ながらの日本家屋は生老病死を前提としているように思います。

何事かあれば、田の字に並んだ四部屋の和室が、三十畳ほどの大きな一部屋になります。

おめでたい日も、そうでない日も縁ある人々と迎え、送ることができます。

しかも、その建物自体も古くなって壊れたり傷んだらいくらでも修繕できるようになっています。

限りあるものに手をかけて、出来るだけ大切に長く付き合う事が前提となっています。

 

私の日頃のこころは我欲に浮かれたり沈んだりしますが、蓮如上人がお勧めくださっているのは、物だけでなく人に対しても、死や終わりがあるという事実を南無阿弥陀仏のこころによって知らされつつ、二度と繰り返せない日々を縁ある人と大切に生ききるという人生ではないでしょうか。

 

たとえ日常の細事に振り回され、日頃のこころに埋もれてしまうとしても、季節の節目や亡き人をご縁とした仏事の際に、共に聴聞することで同じく生老病死する人生を振り返りましょう。

2018年もどうぞよろしくお願いいたします。合掌。

 

修正会

日 時 2018年1月1日(月) 午前9時 御始

場 所 慶運山 長源寺 本堂

みなさまのお参りを、こころよりお待ちしております。  釋 卓靜