2020年6月

6月 14th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

他人の人間性を無視すれば

必ず自らの人間性も失っている 和田 稠

 

人間性といえば、「コロナ禍でも日本での死亡率が低いのは、民度の違いだ」と仰った政治家の方がおられます。

お願いをしただけで罰則もないのに国民自ら自制し、耐え忍んだから国民性がいいのだ、と仰りたかったようです。

 

確かに、お互い気を付けあってコロナを蔓延させないように自粛しているのは間違いありません。

しかし同時に、

「コロナになったら、何言われるかわからん」

「一番最初には罹りたくない」

ともよく耳にします。

 

これは国がお願いしたからとか、国民性がいいからという理由よりも、自粛していなかったと思われたり、周囲に感染源だと言われるのが嫌だから「一番最初には罹りたくない」のでしょう。

 

もちろん、軽はずみな行動で罹患して責められても仕方ないかもしれませんが、頑張って自粛していても、感染する時にはするのです。

 

そもそも、罹りたくて罹る人なんてほとんどいないと思います。

 

それでも責めるのは、自分もみんなと同じように頑張って我慢してるのに「けしからん」とストレスをぶつけているのか、あるいは自分が優等生だという根拠を他者の失敗に見出そうとしているのかもしれませんね。

 

ふと、私にはそんな心はないだろうかと顧みると「ない」とは言えないのです。

 

ニュースを見て「あほな事しよったなぁ」という時、私は「あほな事をしない人」のつもりです。間違いを犯さない、善良な市民という一段上に立って目の前の情報だけで人を裁くのです。

 

人を善悪で軽はずみに裁く時、私はその人を「一人の人間」としては見ていないのかもしれません。また、人を立場や肩書きで見る時「こうあるべきだ」と裁く傾向はさらに顕著になります。それこそ、人間性を失っている姿なのでしょう。

 

縁ある他者を自分の「思い(考え)」で見定めたつもりになり、それを「信頼」と呼び、その「思い」と違ったと思うやいなや、信頼を裏切られたと感じて落胆し、途端にその他者を裁いて切り捨てるような冷たい心を持っているのです。だから自分も切り捨てられないように、迷惑をかけないようにと気を使って疲れるのです。

 

それはつまり、私が見た世知辛い世の中の暗さというのは、実は世知辛い私自身の暗さでもあるという事です。
そして、その事を知らせてくださるハタラキを「光明」とか「教え」とかと呼ぶのではないかと思います。

2020年5月

5月 10th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

他人の意見を聞こうとしないこれを我慢といい

 自分の意見を聞かそうとするこれを憍慢という

 

同朋学習会のご講師である瓜生崇氏が「なぜ人はカルトに惹かれるのか」という本を上梓されました。

瓜生氏はその中で「マインド・コントロール」について触れる際、ある本を引用し「パラダイム・シフト」という言葉を紹介しておられました。

それは、前提としている認識や法則(パラダイム)によって説明がつかない事象が累積すると、それらを合理的に説明できる新たなパラダイムによって置き換わり、その後は新たな法則を前提とした、問題の解決や事象の説明がなされる事を「パラダイム・シフト」と表現するとの事でした。

そして、その前提が変わるような、自分自身の中で掴んでいた「常識」や「正しさ」が転換(シフト)するような出来事、つまり絶対化していたものが相対化されるような経験があるという事です。

確かに、似たような経験は誰にでもあるのだろうと思います。
例えば、幼い子供が「なんで」「どうして」を繰り返すと、大抵大人は「そういうもんや」と嗜めます。そうして思考する事をやめて受け入れる(納得しようとする)事を繰り返す内にそれが刷り込みとなり、いつしか「そういうもんか」と世の中をわかった様な気になるのですが、何かをきっかけに再び考え始めるような経験です。

「周囲の意見」という刷り込みは至るところである事です。実は世代間ギャップというのも刷り込まれた時代感覚の違いなのかもしれませんね。
また、世の中でも戦前・戦後、あるいは震災以降どれほどの「パラダイム・シフト」が起こった事でしょう。
新型コロナ騒動の後にも起きるのだと思います。

私は、本質的に自分や自分の将来に対して不安であるため「正しさ」や「確かさ」には弱く、自分にとってそう見える考え方や言葉や物を見ると、つい自分のものにしたくなります。
しかし実は、そうやって得た視座や判断力がそれほど間違いではないだろうという思いは「今までやってきた」とか「たくさんの失敗をして学んできた」という経験を掴んでいるだけなのかもしれません。

本当の確かな「教え」というのは、迷いに対して誰かから確かな答えを与えられるものでも、自分の思いで掴み取るものでもないのだと思います。また、確かな存在になろうと背伸びをしたり、意見の異なる他者の不確かさを咎めたりするのでもないのだと思います。

それよりも、私自身が本当は不確か(諸法無我)な存在であるという事、そして全ての事柄が不安定(諸行無常)であるという事実を正確に知らしめてくださるものを確かな「教え」というのでしょう。

玉光順正氏は「浄土とは一切の物事を相対化する原理」と仰います。
常に自分の「納得」や「経験」こそが確かだという思いを握り締め「我慢」と「憍慢」を行き来する私は、繰り返し教えに解放され続けなければ、その思いに嵌まり込んで動けなくなるのだと思います。

コロナの影響で仕事や生活のリズムが変化する事で、いかに自分が「ねばならぬ」と身動きが取れなくなっていたのか実感させられます。
先の事は分かりませんが、迷いながら教えに聞き、考え続けていきたいものです。

2020年4月

4月 13th, 2020 Posted in コトバ | no comment »

討論(debate)は、話す前と後で考えが変わった方が負け。
対話(dialog)は、話す前と後で考えが変わっていなければ意味が無い。平田オリザ

 

先日同席した、訓覇浩師と宮戸弘輪番との対話の中で紹介された言葉です。
その際、次にある鷲田清一師の文章もご紹介いただきました。

「対話は、共通の足場をもたない者の間で試みられる。呼びかけと応えの愉しい交換であり、吐露と聴取の控えめな交換であり、埋まらない溝を思い知らされた後の沈黙の交換でもある。討論より恐らくはるかに難しい」
朝日新聞『折々のことば』

私は日頃、人との「対話」無くしては営み辛い生活環境にいますが、この言葉から思いを巡らせると、私の日常には「対話」と呼べる様な物は無かったのではないかと思い至りました。

対話に際してどこかで「共通の足場をもっているわけではない」と考えている様で、実は「ある程度共通の足場をもっている」と思い込んで話をしています。

また「呼びかけと応えの愉しい交換」というのも、自分の「呼びかけ」に対して「期待する応え」のあった時にしか感じていない様に思います。

さらに、相手との間にある「吐露と聴取」はとても控えめとは言えず、一つ間違えれば討論になってしまいます。

そして「埋まらない溝を思い知らされた後の沈黙の交換」ではなく、「埋まらない溝に絶望」しているのが実際の有様だと思います。

なるほど、対話は討論より遥かに難しい。

相手の意見をきちんと受け止めようとする態度決定がなければ対話は成立しないんですね。
つまり、相手の見解に対する「敬意」と自分の見解に対する「迷い」が対話を生み、結果的に私の人生そのものを広く、深く、豊かにしてくれるのではないかと思いました。

仏教も単に釈尊という一人の覚者がいただけではなく、その覚りの内容が対話を通して受け止められた時、「教え」として成立してきた歴史がある様に思います。

藤場俊基師はいつも「座談力は聞法力」だと教えてくださいます。
対話を通して何を聞き取り、何を聞き漏らしていたのか、何に響いて何に響かなかったのかわかるとお話くださいます。

つまり、聞法は自分の納得に埋没してしまわない為にも、聞いて終わりではなく語り手と聞き手、あるいは聞いた者同士が互いに「対話」する事が本当に重要なのだと改めて感じました。

お寺本来の姿は、一方通行の仏教講演の場ではなく、語り手と聞き手や聞き手同士の「対話」によって教えが語り継がれる場なのでしょう。

しかし、コロナウイルスの影響で人との接触が制限される今、なかなか対話はかないません。

本や動画で教えに触れる時間を作りつつ、家族と語り合いながら、思索していく時期と受け止めていくしかないのかもしれませんね。