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2013年2月

2月 12th, 2013 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

鬼はおらん 鬼をつくる心が こっちにある

         仲野良俊

 我が家はみんな親鸞聖人の門徒ですが、子供が小さい頃は、幼稚園や小学校の影響で『鬼は外 福は内』と言って、豆まきをしていました。もちろん、私が鬼役です。

 

ある日、とある俳句や川柳が好きなご門徒さんから、一回詠んでみたらどうかと誘われ、その時に詠んだデビュー作が、鬼は外 自分以外が 常に鬼でした。

 

鬼役をしながら考えたんです。今自分が鬼役をやっているけど、鬼ごっこでも何でも、鬼役は嫌な役回りやったな、と。

鬼は外、福は内と言う時、必ず自分を差し置いて、自分以外の誰か(何か)を鬼にしていました。自分が鬼だとは微塵も思いません。

 

日ごろの生活でもそうです。鬼の様な形相で罵り合っても、お互いに相手こそが鬼の様なヤツだと思っているのではないでしょうか。

 

人間関係における自分の基準もおかしなもので、あの人はいい人、好きな人。あの人は悪い人、嫌いな人と分類します。

でも、極端な例えですが、いい人がたまたま自分にとって都合の悪い事をしたら、『あんな人やと思わんかった。ひどい人や』として鬼に見えるのでしょう。

また、嫌な人だと思っていた人が、たまたま自分にとって都合のいい事をしてくれたら、『今まですまなんだな。ええ人やったわ』とコロッと見直してしまうのではないでしょうか。

 

つまり、自分勝手な都合で、相手に対する感情が揺れ動くんですね。

 

自分はいいところも、そうでないところもある。

いい人だと言われたら嬉しいが、悪い人だと言われる程悪くないはずだ。

そんな風に思っていながら、他人の事は簡単に決めつけ、分類します。

 

1人の人に対して、100人が100人とも嫌な人(いい人)だと言うとは限らない。その関わり方によって、コロコロ変わります。

そう考えると、嫌な人だ、鬼だと思っているのは自分だけで、苦しいのもまた自分だけかもしれない。そして自分もまた、誰かに鬼だ、嫌な人だと思われて、誰かを苦しめているかもしれない。

 

それを知って『ごめん。何が悪かった?』とは聞くのは稀です。

『そんな事、誤解ですよ』と弁解しつつ関わるか『そんな風に見ていたのか、ひどいヤツだ』と言い合いを始めて関わらないようにしてしまう事もあるでしょう。

 

感情や思考において、自分自身も他人も思い通りにならないのに、自分は『わかっている者』『何とかできる』と思い込む。

そして、自分や他人を何とかしようとして悩み、苦しむ。

 

何やってんでしょうね。ホンマ、情けない。

 

親鸞聖人は『正像末和讃』で『愚禿悲歎述懐』(悲歎述懐和讃)として、次のように御和讃に詠われています。

 

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

 

悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる

 

親鸞聖人もまた、仏法を聴聞しても聖人君子のような心境になれないと歎いておられたようです。どこまでもお念仏の教えに照らされていく他ないという事でしょう。

 

分別のある大人(父親・住職)を演じようとして、その奥底で、福であり善である、精進している自分を取り繕い、その理想通りあり続けようとするあまり、自分の都合の合わない他者を鬼とし悪としていたのは私でした。

 

蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなうまじ
如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん