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2019年3月

3月 23rd, 2019 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

日頃の眼(まなこ)を問い直されるところから具体的な歩みが始まっていく。

一楽真

現在、長浜教区第15組の同朋の会教導(通称・組教導)と言うお役目をいただいています。

そのお役目もあって、先月9日から11日まで、第15組推進員養成講座の後期教習と言う本廟奉仕団に参加するご縁をいただきました。

この奉仕団参加者の皆さんは、前期教習として月1回の聞法と座談会を全5回、後期教習として本山で2泊3日の共同生活を過ごし、聞法し語り合う事を通して推進員となられます。その推進員さんの具体的な役割は住職などと協力し合い、地域での聞法生活を推進するというものです。

また推進員さんとなられる方は帰敬式を受式いただく事が必須です。今回も8名の方々が帰敬式を受式くださいました。
実はそのうちのお1人は長源寺のご門徒さんでした。

さて、その時の帰敬式法話を担当されたのが、長浜教区の浄願寺・ご住職 澤面宣了氏でした。そのご法話では、お孫さんとお出かけする事が増えたご門徒さんが、お孫さんとお出かけするようになる以前とは視点が全く変わってしまったと言うエピソードをご紹介くださいました。

確かに連れ合いが妊娠中は、世の中に妊婦さんが増えたように見えました。
また娘の成長と共に園児→小学生→中学生→高校生→大学生と、目にとまる子ども達の年代が変化して行きました。
それにそれまで街の風景の一部であった学校も、娘が入学した途端に特別なものとして目に入るようになりました。
今思えば不思議です。しかし、その理由を今回のご法話で澤面先生に次のようにご指摘いただきました。

「私たちのものを見る眼とは、自己関心でしか無いのです」

なるほど。そうかもしれません。というより、そうなのでしょう。

つまり日頃、世の中が変わったと私が感じているのは、それは私の世の中が変わったのです。見たいように見ているのです。良くなったと見るのも悪くなったと見るのも私。

また「みんなもそう言っている」は、みんなで似た様なものを見ている気がしているだけなので、「みんな」は確かな根拠にはなりません。

「自己関心しか無い」と、私の眼の偏狭さを指し示す「法」こそが確かな「教え」なのです。

とはいえ、無意識のうちに基準とするのは「法」よりも「日頃の眼」と言う自己関心なのです。
教えを聞いても残念ながら自分の「日頃の眼」に合うか、合わないか。
合わないと「意味がわからん」と言って切り捨てるような根性を持っているのです。 すぐにわからないからと言って、それが意味をなさないとは限らないということは、自分自身の両親や祖父母、多くの先輩たちとの様々な形での「別れ」から学んできたはずではなかったでしょうか。

様々な仏事や今回の推進員養成講座のように、教えを聞き、語り合う事を続ける以外に、日頃の眼が問われるような具体的な歩みが始まる事も続く事もない私なのだと感じました。