2019年7月

仏説は仏弟子によって証される 安田理深

 

昨年あたりから別院で法座があると、時々教務所やご講師のお宅に無記名で投書が届いているようです。

内容は主に「勉強し直せ」「話す資格がない」「人選考えろ」等です。

無記名という事は後ろめたさがあるのでしょうか。

 

ただ、行動に移す事は稀ですが、似たような思いは誰でも抱くのかもしれないと思いました。

私も「この先生は聞きやすい」「この先生はお念仏のお話がなかった」と一喜一憂します。そして、自分にとって聞きやすい先生とそうでない先生を分けるのです。

 

もちろん、話す側の技術や経験など色んな要因もあるのでしょうが、それよりも自分の納得(思い)を中心にして聞いているのだと先輩に教わりました。

 

人生経験や聞法経験を重ねると、教えられる者から教える者へと勝手にのぼせ上がり、相手の話をきちんと受け止めて考えようとする前に裁く事があるように思うのです。

 

先日、友人が大学生の頃に「思枠(おもわく)」という言葉を先生に教えてもらったと聞かせてくれました。

私の思いという枠を通して物事を見ている以上、枠の中におさまらない物は全て否定するか、あるいは見落とし、聞きこぼしてしまうのでしょう。

 

つまり、教えも自分にとって心地良いその「枠」におさめて聞こうとするのです。

 

人生経験と同じく、仏法に触れた人間の問題は、自分の思いや経験に則って物事の真実を見出そうとしてしまうことにあるように思います。

それは、目の前の事実や相手の話から「教え」を聞き出せなくなるという問題を孕んでいます。そしてついには、抱いた違和感の方を確かだと信じ、対話することなく一方的に失望するのです。

 

藤場俊基師は「仏弟子であるという事は、自分自身の主観よりも仏の教えをより確かな物であると選び取るという事である」とおっしゃいます。

 

つまり私の思いに真実を見出そうとする姿勢は、自分の主観をより確かだと選ぶ姿勢であり、悲しい事に仏智疑惑そのものであると教えられます。

 

私の思いと合致する「教え」ではなく、私の悲しい有様を知らせてくださる「教え」なのです。

私の身の上に聞いていく事はあっても、誰かが教えとしていただかれた事を裁くような智慧を持ち合わせているわけではありません。

どこまでも共に聞き、共に語り合う事を通して、本当に願うべき事、歩むべき方向を教えられ続ける者でありたいと願います。

This entry was posted on 火曜日, 7月 16th, 2019 at 09:33 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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