2023年4月 / 春季永代経のご案内

ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり 蓮如上人御一代記聞書193

 

人との向き合い方と、仏法との向き合い方はよく似ているように感じています。

 

先日法座のあとで数名の参加者の方々と「宗祖のお言葉にこだわる」とか「お聖教に帰る」というような話をしていた時、ふと私は本当には宗祖のお言葉にも、お聖教にもこだわってはいないのではないかと思いました。

 

聴聞という言葉があります。「聴」は聞こうとして聴くことをいい「聞」は聞こえてくることをいうのだそうです。

私は「聴聞しましょう」と言いながら、実はそのどちらでもなく「訊」という聞き方をしていたのではないかと思い至りました。

それは「訊」にたずねるという意味があるように、どれほど聴聞を続けても何か自分に合う「答え」を期待して聞いているだけではないかと思ったのです。

つまり自分の理解の枠組があって、その枠内に収まる話かそうでないかという聞き方です。

 

「分かる」は「分ける」と書きますが、自分の中にいくつかある枠組の中に、宗祖の言葉もお聖教も勝手に分類して理解したことにするのです。

 

それで「宗祖の言葉」や「お聖教」にこだわっていると言えるでしょうか。

 

自分の理解、自分の考えにこだわり、自分の分類方法に納得しているに過ぎないのです。

またそれが誰かの言葉であれば「こういうことを言いたいのだろう」と自分の解釈で分かったような気になって、本当の意味では全く通じ合えていないということもあるはずです。

 

御経は釈尊の教えに出遇ったお弟子さん方によって綴られており、「如是我聞」(私はこのように聞きました)で始まります。

しかし言葉は教えや気持ち、考えなど大切なことを表現する一つの手段ではありますが、その全てを表現することはとても難しく、表現者の中でできるだけ近いもの、正確なものを慎重に選択します。

だからこそ受け手は時代背景や当時の文化を想像したり、多くの情報を頼りに正確に理解しようとするのです。伝えられた言葉とじっくりと腰を据えて対話するように向き合うのであって、自分の枠に落とし込んで理解しようとすることとは違うのだと思います。

 

日常の対話でも同じことです。真意がわからなかったり意見が違ったりしても、目や表情そしてその言葉の背景を想像して、根気よく相手の思いが聞こえてくるまで向き合うのです。

そのことで何が見えていて、何が見えていなかったのかを知ることを通して、相手との間を隔てていた自分の枠組が揺らぎ、互いの世界観が少しだけ溶け合うのでしょう。

 

真剣に聴くというのは、自分の枠組が崩れることで聞こえてくるものを大切にするのであって、決して教えや誰かを自分の解釈の枠に落とし込んで理解したことにしてはいけないのだと思います。

経験したり学んだりするほど枠組は増え、様々な理解が進むように感じます。難しいことですが、それが却って迷いを深めることがあると忘れてはならないのでしょうね。

まもなく永代経です。どなたでもお参りいただけます。

その時に自分の中で結論が出なくても、わからなくても、聞こえてくるまで一緒に聴聞しましょう。

 

◎4月30日(日)

午前9時30分勤行 法話2席

午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 圭 師 です。

This entry was posted on 水曜日, 4月 19th, 2023 at 19:20 and is filed under コトバ, 徒爾綴, 法要案内. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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