2011年4月

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだ

「最後だと分かっていたなら」Norma Cornett Marek

先のニュージーランドでの震災、また東北の大震災にて被災された方々は、どんなお気持ちでしょう。

先月、瓦礫の下からの救出作業が放送されていて、その際

「主人と娘が下敷きになってるのー。ひとりぼっちになっちゃうよー」

といいながら泣いておられた女性がとても印象的でした。

私は家族で見ていたのですが、胸が締め付けられるような感じになった事を覚えています。

思い出の詰まった町や風景が、一瞬にして変わってしまう。

大好きな人も大嫌いな人も、一瞬にして変わり果てた姿になってしまう。

大好きな人や物との幸せな日常。大嫌いな人や物との悩み多き日常。

そんな日常が、いかに有難い(有る事が難しい)事であったのかと改めて感じます。

そんな日常が、何気ないと思える事で一喜一憂できる事実に、愛おしさすら感じられます。

日常は常ですが、永久に続く訳ではない事。

何もかもが永久に変わらないものではない事を改めて確認させられます。

色々なものを永久に続くものとし、当たり前の事とし、慣れ、飽きる私たち。

家族•職場•地域…

すべてが繋がりです。自分の都合次第では「繋がり」が「しがらみ」となる事もあります。

私たちは自分の都合で有難い事実を無下にしてしまう事があります。

すべて「自分の都合で」です。

変わらない仏の言葉によって、すぐそこにある移り変わりやすくも有難い事実に出遇っていきたい。

…と目標(大義名分)を振りかざし、それは間違っていないと確信し、次第にそれが自分の都合化し、その為にまた身近な誰か(何か)を無下にしてしまう私は、まさに「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)なんでしょうね。

This entry was posted on 土曜日, 4月 2nd, 2011 at 17:47 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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