2011年8月

悩むというのは自覚である 悩まされるというのは無自覚である
曽我量深
悩みの無い方はおられないと思います。しかし、私達のそれは、悩んでいるというよりは、悩まされているといった方がいいのかもしれませんね。
口では悩んでいる(自覚的)と言ってみても、大抵が「〇〇のせいで悩んでいる」
となっています。これはつまり、〇〇に悩まされている(無自覚)と同じ事でしょう。つまり…
〇〇のコトで悩んでいる
〇〇がどうにかなれば解決する悩み
〇〇のせいで悩んでいる=〇〇に悩まされている
という具合。
例えば〇〇を「我が子」としてみましょう。
我が子のコトで悩んでいる
我が子の状態がどうにか(自分からみて良い状態に)なれば解決する悩み
我が子の状態のせいで悩んでいる=我が子に悩まされている
実は本当の意味では悩むという事をした事がないのかもしれませんね。
悩ましい状態を解決しようとして、アレさえこうなればいいのか、あいつさえああなればいいのか…と、自分以外を何とかしようとしてもがきます。
自分自身が思うようにならないのに。
今の状態が悩み多き私は、一体どうなったら悩まないのでしょうか。
最後に、浄願寺ご住職の澤面先生が、ご自坊の通信で紹介されていた文章をお借りします。
「新しい下駄をはくと、下駄の表面がすぐ黒く汚れてしまう。それを布巾でふけば、すぐ汚れがとれてきれいになります。でも、はいているうちにまたすぐ汚れてしまう。なぜ下駄の表面が汚れるかというと、自分の足の裏が黒く汚れているからです。どれだけ下駄をふいても、まっ黒な足の裏をしていれば、すぐ汚れてしまう」。曽我量深先生のお言葉である。こんなことは、理知では分かりきったことである。しかし、人間というものは、下駄の汚れの原因は自分の足の裏が汚れているからだ、ということに容易に気づかない存在である。愚かとも無明とも言われるゆえんであろう。それに気づかない間は結局、下駄をふきつづける生活でしかない。私たちの日常は、下駄をふきつづけている生活ではないだろうか。「自分の足の汚れに気がついた人を目覚めた人、下駄の汚れの原因が自分の足にあると気づかない人を不平不満の人」と、曽我先生は言葉を継がれる。

 

「ああ、下駄の汚れの原因は自分の足の裏が汚れていたからだなあ」と気づかされたときに、いのちに体温が通う。その時に、悩まされる世界から悩む世界に転ずるのであろう。悩みがなくなるのでも、解決するのでもない。真に主体的に悩んでいける自分が誕生する。つまり、限りなく問うべき課題が生まれてくるということだ。信仰とはそういう歩みをたまわることである。だが、それは、人間の知恵や眼からは毛頭見つかってこない。そこに教えを聞くということの一大事がある。満ち足りた現実社会の中で、人間が忘れている一大事である。

 

生命の見える時 一期一会』松本梶丸著より
This entry was posted on 木曜日, 8月 4th, 2011 at 14:11 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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