2012年6月

人は昨日にこだわり 明日を夢見て 今日を忘れる

本夛 恵

 この言葉を聞くと、『そうだ過去にこだわってはいけない』と思えます。
でも『こだわってはいけない』と、こだわってしまいます。

この言葉を聞くと、『そうだ夢ばかりみていないで今を生きよう』と思えます。
でも夢や希望が持てないと辛いです。

この言葉を聞くと、『そうだ、今を生きなければ』と思い立ちます。
確かにそうです。でも、今って何?どうすればいい?

未来の見えない私たちは進むべき方向が分からない。つまり、今どうすればよいのかわからない。やはり過去の経験を頼りとし、未来予想図を描きます。

今月の言葉は、私たちが昨日にこだわり、明日を夢見て、今日を忘れる。そんな生き方やめなさいとは一言も言っていません。つまり、自己啓発的なソレではないと思います。

でも、なぜこの言葉が沢山の方の目にとまり、沢山の方が立ち止まり、考えられるのか。
それは、老若男女問わず、この言葉通りの生き方をしているからではないでしょうか。

この言葉は「人は昨日にこだわり、明日を夢見て、今日を忘れる存在である」と、ただ事実を述べられているように思います。

 

自分が気をつけたからといって、そう生きられるものでもないと思います。

今まではこの言葉通りの生き方であったと過去に『こだわり』、そうならない生き方をしようと明日を『夢見て』、この言葉通りに生きられるようにする為の『ひとつのステップとして今を生きて』しまいませんか。

過去の失敗にこだわり、より良い未来を夢見て、今は未来の犠牲とする。

私たちはこの生き方がやめられないのではないでしょうか。いや、やめられないからこそ、人類の文明も発展してきたのでしょう。

その理屈でいえば、昔よりも楽になったはずの私たち。しかし、どちらかと言えば、ますます息苦しい日々を送ってはいないでしょうか。

それは『生死流転である』と教えられました。

今が苦しいから未来に楽を求める。しかし、楽の業が尽きると苦につながります。以前の苦が今の楽をつくるわけですから、楽に慣れると、それが当たり前となり苦に繋がっていくわけですね。満たされた時代に生まれた私や私の子は、今の楽を知らない。

かつての三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)が当たり前。車が当たり前。携帯電話が当たり前。当然あるモノだから、より便利なモノでないといけないのではないかと思ってしまう。より便利なモノを手に入れる為にお金が必要です。でもより便利なモノは次から次へと際限なく出てきます。満足できず、不便になったとさえ感じます。そのうち、お金を蓄えれば常に便利な生活ができると錯覚し、次第に何かの目的の為のお金ではなく、お金が目的になってしまいます。ついには先が見えない不安に覆われ、お金が手に入らない不安に覆われ、暗くなってしまうのでしょう。物質に人間が追われ、振り回されている状態です。

それを佐野明弘さんは、700万年以上とも言われる人類の歴史において、

人間の苦楽の内容は文明が栄えても、何1つ変わっていない

という事を証明しているのだとおっしゃいます。
そのようにして、苦楽を行き来する全体を「生死流転の世界」といわれ、その抜け道のない、出口が無い世界全体を「苦」というのである、と。

これはいよいよ私たちが楽(救い)を求める『方向』が違うのではないかと感じられます。

私の頭(思考)は、比較して上下、損得、善し悪しの中で非常に忙しく悩み、迷います。しかし、それに対して私の身体は思考における判断基準とは違う価値観で、ふと幸せを感じたり、嬉しくなったりする事があります。

出口の無い、苦悩のラビリンス(迷宮)に居る私たちの思考における『やるせなさ』『満たされなさ』が、今日を忘れた苦の生き様そのものなのかもしれません。ですが、それは同時に、仏道(という浄土への方向•道)を歩めとの本願の促しであるともいえるのではないでしょうか。

This entry was posted on 月曜日, 6月 11th, 2012 at 15:14 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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