念仏には無義をもって義とす。

 

念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえにと仰せ候ひき。

歎異抄 第十章(真宗聖典630頁)

 

何にせよ、義をもつと怪しくなりがちです。

 

30代半ばで「kicomaica」という聞法と座談を目的とした会をつくりました。

ただ単に聞法したかったからです。

 

そのときに見せられた「世間の眼」はとても面白かったのを憶えています。

 

20人以上のスタッフが集まったので、「なにやらたくらんでいるのではないか」「既存の組織に対抗するつもりだ。けしからん」などと色んなものさしで、色々言われ、勘ぐられたりしました。

ついには、そのことで複数の団体に説明にも行きました。

 

しかし、聞法したかっただけなので、何を言われても、その趣旨をそのままをお伝えするだけでした。

 

また、ただ聞法したかっただけですから、会が盛況かどうかは、それほど問題になりませんでした。

参加者が多いと賑やかさを感じ、少ないと淋しさをおぼえる程度で、特に人数によって不安になったり、困ったりはしませんでした。

 

そんなわけですから、聞法できなくなるのは困りますが、会そのものの存続にはそれほど執着していませんでした。

なぜなら、一緒に聞いて語る集まりだとは思っていましたが、「集まり」そのものの形式にはこだわっていなかったからです。

 

3年経って、そろそろ誰かに代表を代ってほしいと思い、相談しました。

 

運営主体を後輩たちにゆだねたいと思ったわけです。

もちろん、協力はしますし、参加者として参加もします。

ただ、公開講座ではあるものの、20~30代の若い人たちの聞法会であり、語り場であってほしいと願いました。

 

この辺りからなにやら怪しくなりました。

 

会そのものに対する欲が出てきたわけです。

こうあってほしい。

こうなってほしい。

 

「願い」といえば聞こえはいいのですが、ある側面では、自分の思い通りにしたいという「欲望」にもなるのではないでしょうか。

 

例えば、それを人に伝えようとすると、とても忙しくなります。

誉めてみたり、説明・説得したり画策し、思議し「はからい」続ける歩みが始まります。

誰かの考えや行動をなんとかしないといけないような気になるのです。

それは世間のみならず、家庭内でもよくあることではないでしょうか。

本当の「願い」とは全くの別物です。

 

欲望と願いを混同し、「ねばならぬ」といいながら「はからい」を推進する魔法の言葉、それを「」というのではないでしょうか。

義は勇ましく魅力的ですが、やっかいです。

義というだけあって、自分にも他人にも目に見えない強制力がはたらきます。

とても窮屈な「雰囲気」です。

 

たいていの世の中のもめごとは義と義がぶつかり合うことからおこります。

私の義が視界をふさぎ、広い視野で相手の義を見ることができなくなるのです。

義は偽なり。誰も救わない。

 

どうやら我が義こそ正義だと思っているのは自分だけで、誰の為でもないようです。

 

やれやれ自分は一体、何を聞いてきたのかと思いました。

 

でもそういえば今までも、私は自分のあり様を知らされることはあっても、その経験を自分に取り込むことはできなかったはずです。

私の日頃のこころは、ややもすれば仏さんを忘れます。

そして、勝手に大義を作り出し、自分の歩みや自分の考えを誇ります。

 

照らして影をみせるのは仏さんのお仕事で、私の仕事は照らされることだけでした。

 

そんな私に多くの先人が無義の教えを伝えてくださって、本当に良かったと思います。

 

できれば仏さんを見失いたくないものです。なんまんだぶつ。

This entry was posted on 木曜日, 12月 4th, 2014 at 11:34 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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