2016年5月

魚は広い海の中ならお互い助け合うのに狭い水槽に入れて育てるとイジメが発生するんです。

イジメをする人は生きてる世界が狭いんですね。 さかなクン

 

世の中は広いですね。

広いですが、狭いと感じることもあります。

 

みなさんは、どういう時に狭さを感じますか?

 

友人と別の友人が全然知らないところで知り合いだったとか。

たまたま居合わせた人が同じ学校の卒業生だったとか。

 

まぁ何かそんな経験のひとつやふたつ、みんなありますよね。

 

今月のことばは、「生きてる世界が狭い」と言っておられます。さかなクンです。

魚の帽子を被り、「ぎょぎょっ」とか言いながら、タレント活動をされていましたね。

お魚好きが高じて客員准教授や名誉博士になられた方です。

 

そのさかなクンご本人もいじめられた経験がおありなんだそうです。

 

いじめているかいないかではなく、私たちには理屈ではなく、人を好き嫌いで分け隔てする心がありますね。

 

人と人とが水平に出遇うことができたなら、世の中の悩みや苦しみの大半が解決しそうですが、そうはいきません。一体何故なんでしょう。

 

本来、人も動物も、あらゆるいのちは存在として平等です。

それでも、私たちは存在に優劣上下の格付けをしたり、好きだ嫌いだと分類をします。

 

自分の心に人や物事を嫌ったり、避けようとしたりする心が起こるとき、私は自分の狭さに悲しくなります。

 

その人が私の心を操作したり、私の眼を制御したりしているのではないのです。

そんなこと、誰にも出来ませんよね。

私自身が自分勝手にそのように見たり、そのように思ったりしているのです。

 

もとより広く大きな世界を生きているのにも関わらず。

そこで手足を大きくひろげ、お互いのいのちいっぱいにのびのびと生きることができる筈なのに。

些細なことでもあれがダメ、これがイヤと、世界を狭く仕切ります。

しかも、その仕切る心をおかしいとも思わず、色々と良く分かっているつもりになります。

 

わかるという字は分けるとも書きますね。

ですから、その仕切る心が多い人のことを常識があるとか分別があるとかといいますね。

ところが、かの有名な科学者、アインシュタインはこんな言葉を残しています。

 

常識とは人が18歳までに積み上げてきた偏見である。

 

これでよし。こうに決まっている。これはあかん。あいつはあかん。

そう思い固まった時、いのちの大きな流れに澱みができ、見通しが悪くなるのでしょうね。

 

仏さまの教えは無分別智という分別を超えた智慧の世界をお示しくださっています。

あらゆる存在を見通し、分別する私の本質・本性を教えてくださいます。

 

放っておくとすぐに、分別する心で人も物事も自分すらも分け隔て、自分勝手に狭い世界に入り込み、行き場(生き場)が無い世の中だと悩む私です。

 

そんな私が人間らしく縁ある他者と共に生きるには、仏さま(悟った人)の教え(法)に導かれつつ、元来ここにある広い世界に立ち返らせていただく他に無いのだと感じています。

 

 

This entry was posted on 木曜日, 5月 12th, 2016 at 15:00 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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