2023年6月

6月 18th, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

よしあしの文字をもしらぬ人はみな まことの心なりけるを

善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり  親鸞聖人

 

親鸞聖人は「良し悪しの文字をも知らぬ人」は「まことの心」で、「善悪の字しりがお」つまり「何事もそれなりの見解をお持ちの方」は、「おおそらごと(大嘘言)」であるとおっしゃいます。私の常識とは全く逆ですが、実はここがとても大切だと思います。

私たちは日々多くの物事を見聞きし経験します。そのことで様々なことを自分なりに理解し、判断するようになります。

わかるとは「分ける」と書くように、何事も自分の理解の「枠」に分類することで、一応「解った」ことにしていくのです。ですから、その「枠」が多いと「答え」が増えたようでとても便利です。そして分類方法である「枠」が似ている人とは意見も合いますが、「枠」が異なる人とは合わないことがよくあります。

けれども、その「枠」は経験によって大きさや形が変化し更新されますので、人間関係も日々変化します。

だから「枠」は「惑」に通ずると教わりました。自分の判断、分類に迷いがないことを「惑」というのです。

道を間違っていても「迷っている」と気が付かない限り、立ち止まって地図を確かめることがないのと同じで、道を求め、教えに問い尋ねることを忘れるのです。

近年、何事もじっくり向き合って取り組んだり、何度も何度も考えをめぐらせたりすることよりも「わかりやすいかどうか」「できるかどうか」が重視される傾向にあるように思います。どれほど大切に長い間伝承されてきた御聖教(ご法話)でも儀式でも「難しいことはダメなこと」「やったことがない、できないものはダメなこと」なのです。「楽・わかりやすい」が重視され、大体主語は「私が」ではなく「みんなが」です。

人間の要請に応える宗教と人間そのものを明らかにする宗教との峻別が明瞭にならないと宗教が曖昧になる。とは廣瀬杲氏の言葉です。

仏教は人間そのものを明らかにする教えだからこそ、宗祖はこのご和讃をお詠みになったのだと思います。

比叡山でのご修行に励まれた努力や苦労も手柄にして誇り、納得した答えを掴む「枠」を生み、その「枠」に縛られる歩みにしかならない。そういうご自身の姿をごまかさずに受け止められた深い悲しみのご和讃なのでしょう。

そしてだからこそ法然上人に教えられた「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さんの呼び声に応えていく道に喜び、自分の善悪・好悪ではなく縁のあったこの道を大切に歩まれたのだと思います。

言わば、自ら囚われ苦しみ悩む「惑」からの衆生解放が法蔵菩薩の誓願(本願)でしょう。

なのに、どんなに枠を破られても必ず新たな枠(惑)を生み出す私なのです。

だからこそ、たとえ今の自分にわからなくても、目の前の人や物事と丁寧に向き合っていこうとする「しらぬ人」を忘れぬ歩みを「愚禿」と名告られたのではないかと思います。

2023年5月

5月 23rd, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

「信火内にあれば行煙外にあらわる」

 内に火があれば煙が外に出るにきまっておる。

暁烏 敏

 

先日、兵庫に住む両親や兄弟姉妹家族とキャンプをしました。テントで宿泊した翌朝、樹々の葉が擦れる音と鳥たちの鳴き声が響く中、朝早く起きる父と私は焚火をしながら色んな話をしました。

 

昔の朝の仕事は火をおこすことから始まったのだそうです。その言葉通り父は、新聞紙一枚と木片であっという間に火をつけてしまいます。中でも生活習慣の変化によって受けた恩恵と酬いの話は印象的でした。しっかり根を張る雑木林を無くして根の浅い売れる木ばかりを植えたことが影響して土砂災害が増え、花粉も多くなったことなど、父からすれば当たり前の事で、私からみたら驚くことを沢山教えてもらいました。

 

私の眼は電気やガスで簡単に火がおこれば便利でいいという発想です。それは「根元」より上の目立つところだけを見て、単純に便利だの快適だの、自分の都合で生きる眼です。

焚火を前に語る父の眼は、便利なことは結構だが、快適さや目先の都合ばかりを求め、自然と人が循環するような営み全体の大きな流れを見失った生活の危うさを見つめているようでした。

 

コロナで見直せたものもあれば、見失ったものもあるように思います。今や私達が簡便さを求める勢いは想像以上に加速しているように感じます。煩悩を原動力にしたものは回復しやすいが、煩悩に立ち向かおうと大切にしてきたものは回復し辛いとは訓覇浩先生のお言葉です。

仏事でもそれ以外のことでも「簡便さ」は快適で理想的なカタチとして目に映ります。しかし簡便であるということは手をかけないということです。手をかける必要がないということはとても楽ですが、同時に経験を失います。

仏教には「解学」と「行学」という言葉があります。聞いて学ぶことと同じくらい、行ずることがとても大切だと言われます。

教えを聞き、その教えを身に行じようとした時に初めて見えてくるものがあるのです。

学生の頃「ええからやってみろ」とよく言われたことを思い出します。いくら考えて理解を深めたとしても、やはり経験には敵わないのです。

 

末燈鈔(真宗聖典603p)では『文沙汰(ふみざた)して、賢々(さかさか)しき人のまいりたるをば、往生はいかがあらんずらん』と自分の頭で思い得た視座で色々なことを批評し、行ずることがない人の往生はどうだろうか、と法然上人が疑問視していらっしゃるお姿が記されています。

 

仏法聴聞して「わかった」「知り得た」と思った時、無意識のうちに敬意を失い、仏法(仏事)が分かった人間として、仏法(仏事)を自分の理屈で利用してしまうことがあります。
内で何を大切にしているかは外に出るものです。

自分の理解に教えを当てはめて納得するのではなく、お念仏申しつつ先達が私たちにまでお伝えくださったその願い(根元)が「聞こえてくるまで」一緒に聴聞しましょう。

2023年4月 / 春季永代経のご案内

4月 19th, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり 蓮如上人御一代記聞書193

 

人との向き合い方と、仏法との向き合い方はよく似ているように感じています。

 

先日法座のあとで数名の参加者の方々と「宗祖のお言葉にこだわる」とか「お聖教に帰る」というような話をしていた時、ふと私は本当には宗祖のお言葉にも、お聖教にもこだわってはいないのではないかと思いました。

 

聴聞という言葉があります。「聴」は聞こうとして聴くことをいい「聞」は聞こえてくることをいうのだそうです。

私は「聴聞しましょう」と言いながら、実はそのどちらでもなく「訊」という聞き方をしていたのではないかと思い至りました。

それは「訊」にたずねるという意味があるように、どれほど聴聞を続けても何か自分に合う「答え」を期待して聞いているだけではないかと思ったのです。

つまり自分の理解の枠組があって、その枠内に収まる話かそうでないかという聞き方です。

 

「分かる」は「分ける」と書きますが、自分の中にいくつかある枠組の中に、宗祖の言葉もお聖教も勝手に分類して理解したことにするのです。

 

それで「宗祖の言葉」や「お聖教」にこだわっていると言えるでしょうか。

 

自分の理解、自分の考えにこだわり、自分の分類方法に納得しているに過ぎないのです。

またそれが誰かの言葉であれば「こういうことを言いたいのだろう」と自分の解釈で分かったような気になって、本当の意味では全く通じ合えていないということもあるはずです。

 

御経は釈尊の教えに出遇ったお弟子さん方によって綴られており、「如是我聞」(私はこのように聞きました)で始まります。

しかし言葉は教えや気持ち、考えなど大切なことを表現する一つの手段ではありますが、その全てを表現することはとても難しく、表現者の中でできるだけ近いもの、正確なものを慎重に選択します。

だからこそ受け手は時代背景や当時の文化を想像したり、多くの情報を頼りに正確に理解しようとするのです。伝えられた言葉とじっくりと腰を据えて対話するように向き合うのであって、自分の枠に落とし込んで理解しようとすることとは違うのだと思います。

 

日常の対話でも同じことです。真意がわからなかったり意見が違ったりしても、目や表情そしてその言葉の背景を想像して、根気よく相手の思いが聞こえてくるまで向き合うのです。

そのことで何が見えていて、何が見えていなかったのかを知ることを通して、相手との間を隔てていた自分の枠組が揺らぎ、互いの世界観が少しだけ溶け合うのでしょう。

 

真剣に聴くというのは、自分の枠組が崩れることで聞こえてくるものを大切にするのであって、決して教えや誰かを自分の解釈の枠に落とし込んで理解したことにしてはいけないのだと思います。

経験したり学んだりするほど枠組は増え、様々な理解が進むように感じます。難しいことですが、それが却って迷いを深めることがあると忘れてはならないのでしょうね。

まもなく永代経です。どなたでもお参りいただけます。

その時に自分の中で結論が出なくても、わからなくても、聞こえてくるまで一緒に聴聞しましょう。

 

◎4月30日(日)

午前9時30分勤行 法話2席

午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 圭 師 です。