平成26年 春季永代経法要

陽春の候 皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

ようやく暑からず寒からず、仏法聴聞しやすい時節となってまいりました。
つきましては、来る四月十二日(土)に春季永代経法要を厳修いたしますので、ご案内申し上げます。

ところで、永代経とは何のためにお勤めするのでしょうか。

よく「永代にわたって、住職寺族が故人の為に読経し続けるのが永代経だ」と耳にしますが、本当にそれだけでしょうか。

例えば私が読経すること、あるいは皆さんが参詣されることで、故人に何か起きたり、私たちの生活全体がどうにかなったりするのでしょうか。
永代経が、「故人を縁としてずっと御経があがること」ならば、そこにはどんな宗教的な意義があり、どの様に私と関係してくるのでしょうか。

そもそも宗教とは、私が生きる上でとするえの事を言うのでしょう。建物でも棟、身体でも胸というように、「宗」といえば、中心を指すのですね。迷い多き身の拠り所。帰する所と言ってもいいでしょう。

では、私たちが宗教に求めるものは何でしょうか。先祖への敬いや感謝の心でしょうか?…もしかしたら、「思い通りになる人生にしてほしい」と求めてはいないでしょうか。

お金儲けを教えてくれる何か、言うなれば“拝金教”とか、人生を巧く立回る方法を教えてくれる“勝ち組教”などではないでしょうか。
本音ではそれを私たちが求めているという証拠に、本屋さんには巧く生きる為のマニュアル本が多く並びます。その題名はわかるとか簡単・やさしいとかですね。
それでもだめなら神仏頼み。しかし、上手くいかなくても、誰も神仏を咎めません。何故でしょう。畏怖や尊敬の念でしょうか。

別に、それらがダメだとか良いとかということを論じたいのではないのです。

その様によくわからないままの何かを、宗教と呼び、私の中心に据えることができるでしょうか。いやむしろ、日頃私の求めているものが「宗教」と呼べるでしょうか。

永代経で私たちに与えられるのは、共に法施(教え)です。それはお金儲けや巧く立回る為の教えではありませんし、その場、その行為には私個人の欲望を叶えるチカラもありません。

ではなぜ永代経、そもそも仏教が今日まで伝えられたのでしょうか。
共に聴聞し、考えさせていただきたいと思います。是非、友人・ご家族おそろいでご参詣ください。

合 掌

四月十二日(土)午前十時〜と午後二時〜いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は滋賀県東近江市 玄照寺住職 瓜生 崇 師です。勤行後、各座二席ずつ聴聞させていただく予定です。

ご希望の方は、どなたでもお参りください。本堂から入りにくい方は、庫裏(住職宅)にお声掛けください。

平成二十六年三月

 慶運山 長源寺住職  釋 卓静

This entry was posted on 火曜日, 3月 25th, 2014 at 09:09 and is filed under 法要案内. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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