2017年9月

目の前のひとを ただの人と思うなよ
                   高橋卯平

 

このことばと竹中智秀先生の「はじめに尊敬あり」ということばが、最近になってようやく私の問題になってきました。

 

初夏の頃、東本願寺で残業代未払いやパワハラの問題が騒がれていました。

 

みなさんはどうお感じになったでしょうか。

宗教者なのに?お坊さんなのに?本山なのに?

 

私自身も組織に勤める人間の一人です。

始めの頃は上役の声に応えようと一生懸命でした。

だんだんと立場が変わるにつれ、「どうしてこんなことができないのか」「どうして理解できないのか」と後輩たちに対して苛立ち、ひとり悩みを抱えることもありました。

 

そんな30代半ば頃、いつも通り聴聞した帰りにふと、先輩などの上役から教えられ育てていただくこともありますが、後輩が増えた今、実は彼らもまた私の顔色まで伺うほどに私の事を見てくれて、関わることで育ててくれているのではないかと思い到りました。

 

そうすると自分が正しさを握り締め、自分の考える正義を彼らに押しつけてきたように感じ、「ごめんなさい」と「ありがとう」しか出てきませんでした。

 

誰しも雇用契約を結んで組織に勤め始めますが、誰かに従属する為に入るわけではないのです。
チームとして互いに協力し目的を達成することが重要で、少なくともその時の私の役割は、自分の考える正しさに教え導き、矯正する事ではなかったのです。

 

しかしそのことに気付くと、今度は正しさを握り締めて他者を罵る誰かを「愚者」に見立て、気付いた自分自身や弱い立場の人に正義を置こうとするのです。

 

それはそれで立場や正しさを利用した、「 ハラスメント」です。

 

人は、他者を罵り見下すことで仮想的有能感に浸り、存在そのものに上下を作る時、降り場を見失い、自ら創り上げた「あるべき理想の姿」に苦悩するのです。

 

つまりその人を「愚者」と見る私もまた、そうなるまいと自分を縛るのです。

気付いても気付いても、自分の側に正しさを引き寄せる。気付く前と同じ構造です。

 

賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。

賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。

愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。 愚禿鈔(真宗聖典423頁)

 

愚かにも賢者を演じる私が見抜かれています。

 

正しさや仏法の側に立って人を導いたり裁いたりするのではなく、仏法に教えられて人間としての共通の問題・苦悩を抱えている存在、あなたも私も共に阿弥陀様に救われていく同朋という僧伽(サンガ)に立ち返らせていただく。

 

仏法を通して縁ある他者に僧伽として出遇いなおすことで、ようやく私はその僧伽のおかげで仏法に導かれていく道を再発見することができるのだと思います。

This entry was posted on 月曜日, 9月 4th, 2017 at 13:16 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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